第50話 羊殺しの矜持
世界樹の葉が光り輝き、不思議な詩を残してからエルシーの中へと吸い込まれていった。有を無へと還す者……まるで『無効化』の力を持つアルエットのことを指し示しているようだった。
「なるほどね。『無効化』は力を分解して循環へと還すってのが本質ってことか。また一つ、面白い見識を得られたな」
フィンチは服についた砂を手で払いながら立ち上がる。先ほどの詩について言及しながらも、鋭い眼差しと警戒がメサンジュへと注がれている。
もうメサンジュを味方する者はいない。エルシーを縛るメサンジュの加護は『無効化』の力で強制的に終わらせたらいい。エルシーが解放されれば、世界全体への異常な『絶対正義』を止めることもできる。
何が起きても他は無視でいい、狙うのはメサンジュただ一人と狙いを定める。
「有を無へと還す者……物は言いようですね。『無効化』など、神の祝福を冒涜する世界の歪みそのものだというのに」
メサンジュは嘲笑を浮かべながら、エルシーが触れている宝玉に手を添える。その瞬間、アルエットは半球状の薄い光の膜のようなものに覆われた。それは先ほど見た薄緑の光によく似た色をしていた。
慌ててその膜に触れると、ガラス窓に触れたときのような固くてつるつるとした感触が手のひらに伝わってくる。何かの術のようなものだとは思うが、『無効化』が発動する様子がない。
「アルエットが触れても消えませんの……!?」
ロンディネの声のした方を向くと、彼女もまたこの不思議な膜に覆われている。ハッとして周囲を見回すと、全員がそれぞれ隔離されるようにこの半球状の膜に閉じ込められていた。
フィンチは舌打ちすると、膜に向かって手を伸ばす。その手の先に法陣のようなものが現れ、指先で触れて紋様を動かしていく。その表情が次第に険しくなり、いつもは好戦的なくらいの瞳に焦燥が浮かんでいる。
「この結界、やっぱ世界樹の力を利用してやがる。神の力は自然由来って言われてるから、アルエットの『無効化』が機能しないのか……」
フィンチはなんとかこの膜……結界を消す手段を模索しているらしく、腕を組みながら法陣と向き合っている。正直知識のないアルエットには、彼が何をやっているのかわからなかったが、いつになく真剣な眼差しに期待を寄せたくなってしまう。
「マジでクソだな。世界樹の実からしか干渉できないように権限が制限されてんじゃねぇか!」
「世界樹の……実って何?」
「アレだよアレ、エルシー様が手を置いてる宝玉! メサンジュもこの結界作る前に触ってたろ? あんたはもっと観察眼と考察力を養え!」
あれって実だったのか……と思いながら、エルシーが手を添えている宝玉を見た。淡く黄みがかった白い実は、ぼんやりと微かに発光している。どうやらあの実を使うと、世界樹の力を借りて、声や力を世界に届けたり、こんな結界を出したりできるらしい。
「君たちのことはよく知っていますので、あらかじめ対策は講じておきました。しかし……ここまで計画を狂わされると思っていませんでしたよ。潔く負けを認めておきましょう」
負けを認めたと口にしつつも、メサンジュは勝ち誇ったように目を細めてほくそ笑む。最後の最後で勝つのは自分の方だ、と誇示するように。
「エルシー、君の理想の世界が完成される瞬間を見せて差し上げましょう」
メサンジュがエルシーへと微笑みかける。エルシーの一声でメサンジュの望む歪んだ世界が実現してしまう。
けれどエルシーは口を開かなかった。変わらず虚ろな水色の瞳で、なんの感情も読み取れない静謐な無が顔に貼りついている。アルエットの目には、それがエルシーなりのささやかな抵抗のように見えた。
「エルシー、エルシー……? どうしたのですか?」
「嫌われたんでしょ。素直に認めて、さっさとその洗脳の加護を解いて」
「洗脳……? そんな下劣なものと同じにされては困ります。これは『思念共鳴』です。救世主である私の声を心の奥底に届け、語りかける神聖なものなのですよ」
メサンジュの言葉から察するに、声を介さず直接語りかけ、心に彼の思いが響く能力。直接語りかけるという形がエルシーにだけ聞こえるという特別感を作り出し、まるで神の声のように偽装できたということだろう。
「あらあら、どれだけ綺麗に取り繕ったところで、神託と思い込ませてエルシー様を騙していた事実は変わりませんわよ? これでは反射を黙っていたシーニュと同レベルですわね」
ロンディネは自力での脱却は厳しいと判断したのか、風術で宙に浮いて座りながら、優雅に足を組む。制服のポケットから扇子を取り出して開き、口元を隠してメサンジュを見据えた。
目元は品定めするように笑っているが、口元は不愉快そうに閉ざされている。いつもは正面からしか見えず、絶えず笑みを浮かべていると思っていたが、横から見て初めてそうとは限らないのだと知った。
事実を隠し、エルシーを騙していのはシーニュと同じ。反論の余地もなさそうなロンディネの言葉に、メサンジュは待っていたと言わんばかりに食いつき、目を輝かせた。その不気味さと異様さに、アルエットの喉がぎこちなく鳴る。
「同じではありません。聖女の重責から彼女を救うために、私は神より賜りし加護を使い、神託という形を取ったまで。君たちは知らないでしょう……初めての神託で災いを食い止めたときのエルシーの笑顔を。私がエルシーを救ったという事実をなぜ認めようとしないのですか?」
じゃあ最初は、本当に……純粋な善意だったってこと?
正しさに迷い、歪みに悩み、孤独の痛みを耐えてきたエルシーの最初の救いは、メサンジュの与える神託だったのかもしれない。だからこそ、わからなくなる。どうして自分を救世主と思い込むまで驕るようになり、独善を暴走させてしまったのか。
「それが本当なら、俺と同じ……最初はただ守りたかっただけのはずだ。なのにどうして今は、エルシーの苦しみを見ない……?」
サイラスも同じように感じたのか、ぽつりと呟いた。それはメサンジュに問いかけているようで、どこか自問しているような響きでもあった。
メサンジュとサイラスの立場は似ている。互いに子供の頃のエルシーを知り、サイラスはエルシーが聖女になるまで、メサンジュは聖女になってすぐに出会った。
まるでエルシーの隣を、バトンを手渡すように入れ違いになった二人は、彼女に恋心を抱いている。けれどその対応も向ける想いの形も全く異なっている。サイラスがとことん日陰から背中を押すように支えているとすれば、メサンジュは日向に向かってぐいぐいと腕を引いているような、対照的な印象だった。
「エルシーの声を聞いてよ。エルシーはずっと、自分の本当の声を聞いてほしがってたのにさ。君もエルシーを愛してるって豪語するなら、ちゃんと大切にしてよ!」
「聞いているからこそ、です。彼女もまた……大きな力を与えられた迷える仔羊なのです。エルシーはずっと正しさに怯え、迷い……震え、私に胸の内を打ち明けてくれていました。ずっと……誰より近くで見ていたのですから間違いようがありません」
あぁ、もうダメだ……そう思った。全然話が通じないうえ、自分は間違っていると絶対に考えないところまで突き抜けてしまっている。こうなってはもう、対話でどうにかするのは無理だ。メサンジュから切り崩そうとするのは時間の無駄だろう。
「エルシーも仔羊、か。ねぇ、メサンジュ。私の名前は覚えてる?」
「もちろんですよ、記憶力には自信がありますからね。アルエット・カルミア・スティーリア殿」
「じゃあ、メサンジュは知ってる? カルミアの花が……田舎でなんて呼ばれてるか」
「申し訳ございません。君の住む寒村での俗称など、さすがに守備範囲外です」
メサンジュは苦笑しながら肩を竦めると、大仰に首を振る。態度と言葉は、侮蔑の感情であふれていた。かわいそうな人だ。その“寒村”にも、“寒村”なりの良いものや美点があるというのに。そういったものを拾いきれず取り零してしまう貧しい感性に、アルエットは少し同情した。
「……“羊殺し”。カルミアには毒があって、よく羊に被害が出るからそう呼ばれてるんだよね」
「何が言いたいのです?」
さすがに言葉の裏にある含みを察したらしい。散々「仔羊」と連呼してきただけあって、言葉を逆手に取った反撃に微かに苛立ちを抱いているようだった。
「仔羊エルシーを上手に解体するとこ、君にも今から見せてあげる。安心して、私は屠殺も得意だから」
このまま終わらせない。どうせ終わるなら、やれることはやり尽くしてからだ。
このままエルシーが「仔羊」であることに甘んじるなら、それでもいい。けれどきっとエルシーなら帰ることを選ぶと、アルエットは信じていた。




