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第49話 古の残照が詠う一片の詩《ひとひらのうた》【エルシー視点】

「あぁぁ……もうやめろぉぉッ……!!」


 サイラスの叫びに、胸ぐらを掴まれたように感情が呼び覚まされる。大切な人たちが傷つけ合っている光景すら、ただただ無感情に出来事として映すだけだった自分の(おぞ)ましさに血の気が引いた。


 そして無感情に見つめてきた記憶が順番に、荒波のようにエルシーを襲い、呑み込んでいく。


 わたくしの弱さが皆を……世界を陥れてしまったんですね。


 二人の話を聞くこともなく疑心を募らせ、メサンジュの言葉を信じ……いや、甘言に絆されて楽な方へと逃げてしまった。戦闘を止めようとして、言葉一つ満足に発せないことに気づいた。


 意識を手放したサイラスが槍を握り、アルエットへと迫る。シーニュはロンディネと交戦し続けており、フィンチも自身の自我を守るのが限界でとてもアルエットを守れる状態ではないのが見ているだけでわかる。


「やめて、サイラス! アルエットは治癒術すら効かないんです!」


 アルエットはまだ武器を握るようになって日が浅い。ずっと鍛錬を積んできているサイラスに敵わないのは明白だ。もしここで大怪我を負ったら、治癒術の効かないアルエットはまず助からない。友人が友人を殺すところなんて、見たくもなかった。


 サイラスの攻勢に徐々にアルエットは押されていく。体格差、経験差、歴然とした力量差を前に、自らの命を焚べることで光を絶やさず立ち向かっている。負けるわけにはいかないという意地だけで、アルエットは歯を食いしばって踏ん張っている。あんなにも余裕のない、消えかけた炎のようなアルエットの表情は初めて見た。


 力で押し切られ、後ろへと蹌踉(よろ)めくアルエットへ、サイラスの槍が容赦なく突き出されようとしている。思わず目を背けたくなる瞬間も、(まばた)き一つせず開いたままの瞳で捉えようとしていた。


 しかし、二人の間に小さな爆発が起こる。無効化してその場に立ち続けるアルエットに対し、サイラスは棒切れのように吹っ飛び、受け身も取らずに地面に落ちた。


「サイラス……サイラス……!」


 どんなに叫んでも、この口は本当の気持ちを紡がない。本当の気持ちは、誰にも伝わらない。暗澹(あんたん)とした思いに思考が支配されていく。


 これはきっと、誰かに縋り、救いを求めたわたくしの弱さへの罰なんですね。


 聖女になり、『絶対正義』の力で誰からも真の自分の姿を見てもらえなくなった。皆の感情や考えが歪むのだと嘆いた。


 けど先に歪んだのは、わたくしの方──


 この力こそが、歪みそのものだ。歪んだ存在に触れたから、皆も歪んだ。どうして自分は正常だなどと傲慢な考えをしていたのか。


 もういっそ消えてしまいたい。脈々と受け継がれてきた『絶対正義』の力すらろくに扱えない半人前に、聖女など務まるはずがなかったのだ。


 わたくしが死ねば、聖女の力は次代の聖女へと移る。

 世界そのものが歪められる前に、どうか……わたくしを殺して──


「エルシーを、泣かせるなっ……エルシーの心を踏みにじるな……!」


 地に倒れ伏したサイラスの若草色の瞳が、エルシーを見つめていた。『感情視認』……体が動かなくても、声が出なくても、本当の思いが伝わった瞬間だった。


 わたくしは本当に、ダメな聖女ですね……


 どうして諦めようとしたのだろう。どうして殺してなんて願ったのだろう。ここに駆けつけてくれた仲間たちは、まだ誰一人諦めていないのに。


『メサンジュは……始祖エーテルの言葉を下ろす、救世主です。彼を神とし崇め、信じなさい』


 けれどそんな思いとは裏腹に、体は自由に動かせないまま、唇はメサンジュの求めに応じて心にもないことばかりを吐き続けている。


 それでももう、エルシーは諦めようとは思わなかった。何度も何度も本当の思いを伝えようと唇を動かそうとした。


「シーニュ、アルエット……二人を疑ってごめんなさい。あなたたちはここに駆けつけてくれたのに……」


「サイラス、フィンチ、ロンディネ……もう戦わなくていいんです。わたくしは、こんな世界は望んでいない……」


 今すぐ皆のところへ駆けつけたいのに、体はピクリとも動かない。唇は言葉を紡がず、声にもならない感情が喉の奥で熱を持ち、焼けつく。全ては分厚く冷たいガラスの向こう側。しっかり固定された水槽の中で、ひとり暴れる魚のようだった。


「お願いメサンジュ、もうやめて……!」


 動かない体という器の中、ひとり叫んだ。その瞬間、淡く温かな薄緑の光が弾ける。アルエットの傍に薄緑の光の玉が浮いている。鼓動のように繰り返される光の明滅は次第に力強さを増し、柔らかく波のように光の波紋を広げていく。


 その光が皆を包み込むと、ひりついた戦場の空気が神殿の静謐な空気へと変わった。ロンディネは攻撃の手を止め、フィンチは気が抜けたようにへたり込み、そして悶えるように抵抗していたサイラスはそのまま静かになった。三人とも深い疲労の色が滲んでいるが、無事であることが見て取れた。


「これは一体……? アルエット殿は魔術は使えなかったはずですが……まぁいいでしょう。何度でも語りかけて差し上げれば良いのですから。さぁエルシー、皆に言葉を」


 メサンジュに命じられた体が、指示に従い再び口を開こうとした。けれどそれを遮るように、また一つ薄緑の光が眩く散った。その瞬間、穏やかで静かな……一片(ひとひら)の木の葉のような(うた)が降ってくる。


『有を無へと還す者──(くら)き空の果てを渡り往く者よ、汝の指先は万象に(つい)を告げるだろう。されど汝の眼差しは始まりを照らし、朝を告げる。小さき枝葉なれど、散りて恵みを育むように』


 光は意思を持ち、アルエットへと向けて話しかけているように見えた。その光の玉は踊るように宙を舞い、エルシーの胸へと飛び込んでくる。


 以前アルエットが見せてくれた世界樹の葉と同じ形をした光。光を放つ葉は、そのまま水の中に沈むように体の中へと吸い込まれ、今度は空間ではなく頭の中に声が響く。それはメサンジュに与えられる神託の感覚に似ているようで、全く違う印象を抱いた。


『聖を身に宿せし者──深き暗闇の底を迷い往く者よ。寒さを知らぬ者は温もりを持たぬ。光の中では暗闇に手は届かぬ。この先は手を携え歩む道。汝が灯し、皆が汝の背中を支えるであろう』


 その声はそよ風のように優しい囁きのようだった。それは絶大な威厳を放つ神の声などではなく、温もりのある女性の声だった。


 神託はメサンジュによる偽物で、歴代聖女の中にも神託を聞いた者は一人も存在しなかった。神託など、この世に初めから存在していなかった。


 始祖エーテル自身は、かつて存在したのかもしれない。けれど、今はもういない。これはきっと、世界樹の葉がもたらした始祖エーテルの心の名残りであり、永き時を超えて舞い散った小さな奇跡の灯火だとエルシーは感じた。


 不思議と、体を駆け巡っていた熱がほどける。聖女になってから安らぐことのなかった心が、本当の意味で穏やかに鎮まっていく。


 聖女という立場の重責。『絶対正義』による歪み。そして孤独。心のざわめきが鎮まったことで初めて、聖女になってからの十二年間、ずっと心が怯えて縮こまり、「無理だ」と泣きじゃくっていたことに気づいた。


 体は……まだ動かない。けれど確かに、千切れた感情と感覚の綻びが結び直されていくのをエルシーは感じていた。

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