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第36話 安寧に捧ぐ生贄【サイラス視点】

 ロートヴィル村の厄災の花の浄化から三週間が経とうとしていた。フィンチから厄災の花が復活したといった異常の報せは届いていない。休暇から戻ったシーニュと行動を共にしており、もうあと半月ほど滞在してから戻るという連絡がつい先日届いたところだった。


 夏も終わりに差しかかり、秋の祭典や儀式のことが議題として挙がるようになってきた。今もちょうど『月宵(つきよい)の儀』についての打ち合わせをエルシーとコルモラン大司教、そして高位神官たちで行い、サイラス隊はエルシーの護衛の任についていた。


 月は始祖エーテルの瞳や眼差しに例えられ、信奉されている。自身の一年の行いや、来たるべき一年への祈りを木の札に書き、炎に焚べて神に託す。それが『月宵の儀』であり、トランチェレスティナの儀式にはいつも世界中から集まるため、毎回準備も入念に行う必要があった。


 滞りなく話し合いが進み、打ち合わせも終わりに差し掛かったとき、エルシーが顔を顰め、目を伏せた。やがて開かれた瞳は元の朝日のようや黄金色ではなく、澄んだ“空色”が覗く。その目を見た瞬間、胸の奥が軋んだような気がした。


──神託。


 この瞳の色を見ると、エルシーが聖女であることを強く意識させられる。美しくて神聖で……手の届かない遥か彼方へと行ってしまったような寂しさを微かに覚える瞬間でもあった。


 彼女の瞳は空色に染まり続け、それまでの穏やかな空気が一瞬にして転じる。神官たちは、真剣な眼差しを一斉にエルシーへ向けている。けれどエルシーは、一向に口を開こうとしなかった。


「エルシー様、神託が下りたのですか……?」


 痺れを切らした高位神官の一人がエルシーへと尋ねる。エルシーは静かに首を振ると、「なぜか上手く聞き取れなかった」と口にし、胸元でそっと手を握りしめていた。


「聞き取れたら、お伝えします……」


 エルシーが暗く霞んで視える。エルシーの感情は複雑で、常にいろいろな感情をまとっていて普段はほとんど判別がつかない。けれど今回は、珍しくわかりやすい。


 まるで逃げ隠れるように姿を覆い隠すほどの靄は、それだけ強い怯えの感情を抱いている場合に視られることが多い。この黒と青と紫を混ぜ合わせたような独特の色彩も加味すると、経験則から“恐怖”と“戸惑い”の感情ではないかと想像していた。


 それからのエルシーは強くはないものの、恐怖と戸惑いを常に周囲にまとうようになった。そして一日に何度も何度も繰り返し神託が下りるたび、靄は彼女を覆い尽くす。


「ごめんなさい……やっぱり聞き取れません」


 その度にエルシーは消え入りそうなほど申し訳なさそうに呟くばかりだった。そんな姿を見ていて、もう一つ気づいたことがある。それは「聞き取れない」と口にすると、微かに歪んで視えることだ。


 歪みは嘘をついた瞬間に表れる。つまりエルシーは、神託を聞き取っていながら、聞き取れないフリを頑なに貫いているようだった。周囲にまとわりつく靄の濃度は、初めて神託が下りた日から三日後には、すでにかなり濃くなっていた。


「エルシー、私とのお茶会はしばらくお休みにしたいって……大丈夫なのかな」

「やはり神託の声を聞き取れないことが原因ではありませんの? 責任感のお強い方ですから、聞き取れないことを役目が果たせていないと思い詰めてらっしゃるのかもしれませんわね……」


 明らかに様子のおかしいエルシーを、アルエットとロンディネも心配していた。あれほど楽しみにしていたアルエットとのお茶会を中止にするほどなんてよほどの何かがあるに違いない。


「あなたはエルシー様の幼馴染なのでしょう? 何か心当たりはありまして?」

「うーん、エルシーの感情は複雑で読み取りにくいからね」


 エルシーが恐怖と戸惑いを隠し、嘘をついていることをサイラスははぐらかした。本来感情が視えることの方が不自然で、それを必要もなく他人に明かすことをサイラスは日頃から避けている。


 ロンディネはそのことに気づいているだろうが、こちらを信頼してか詮索はしてこない。彼女の一歩引いた姿勢には、助けられることも多かった。


「でも私のことは結構ズバズバ言い当ててくるよね? それってさ……」

「ご想像通り、あなたの思考が……まっすぐだからだね」

「やっぱ単純ってことじゃん!?」

「悪いことじゃない。それだけ素直ってことだよ」


 そう言うと、アルエットはシュン……と大げさに肩をすぼめて項垂(うなだ)れた。彼女はこうして張りつめて重くなった空気を緩めるのが上手い。


 アルエットはシーニュと同じく、『絶対正義』の影響を受けない希少な存在だった。エルシーが彼女へ向ける信頼の厚さも感じ取っている。そんな彼女にすら打ち明けた様子もなく思い詰めていることが気がかりだった。


 恐怖と戸惑い。神託の声が聞き取れないことで、責務を果たせず聖女失格とまで言われてしまったらと怯えているのだろうか。そもそも神託を受けられた聖女は歴代でもエルシーだけなのだ。聞けなくなったところで失格などと言われることはないはずだ。サイラスはこのまま放っておけず、今晩エルシーの部屋を訪ねることにした。



 * * *



 担当の騎士にはしばらく外してもらい、一時護衛を引き継いでエルシーの部屋を訪ねた。扉をノックして名乗ると扉が少し開かれ、隙間からエルシーの姿が覗く。靄は相変わらず深く、黄金色の瞳は雲間から見える月のように揺らいでサイラスを見上げていた。


「少し話をさせてくれないかな? 神託が下ってからエルシーが変なのはわかってる。何をそんなに怖がってるんだい?」

「ごめんなさい。帰って……」


 扉を閉めようとした隙間にすかさず腕と爪先を差し入れて阻止する。エルシーはハッと息を呑むと、哀願するような眼差しで訴えてくる。


「話せることはないんです。お願い、帰って」

「悪いけど、今回は引かないよ。こんなエルシー、放っておけるわけない」


 幼い頃のエルシーは、いつもサイラスを守ってくれていた。それは単に精神的に強かったからというわけではない。誰よりも痛みに共感できてしまう繊細さと、痛みを抱えても正しくあろうとする勇気の両方を兼ね備えていたからできたことだ。


 幼い自分はそんな彼女に甘えてきたけれど、今は違う。もう一人で痛みを抱えさせるようなことはしたくない。


 エルシーは下唇を噛み締め、(うつむ)く。自身の右腕の袖を掴む左手が、小さく震えていた。無意識に伸ばしかけた右手を握りしめ、静かに下ろす。その手を握ってあげたくて……できなかった。ただの聖騎士が、用もなく不用意に聖女に触れていいわけがない。


「シーニュは……シーニュはいつ帰ってくるんですか?」


 エルシーは微かに吐息を震わせ、掠れた小さな声が零れ落ちる。エルシーはシーニュに恋していないとアルエットは言っていたが、ここに関してはどうやら彼女の方が間違っているようだ。


 シーニュ……一つ年下の、聖騎士団長。冷静で、時に冷徹で、サイラスよりも賢く、シュネーノルディア王国の辺境伯家出身の貴族。迷いのない判断、的確な指示、破格の魔力、なんでも卒なくこなす地力の高さ。どこを取っても勝ち目がなく、サイラスにとっても彼は頼りになる友人だった。


 つらいとき、シーニュを頼りたくなる気持ちは俺にもわかる。

 頼られないのは……頼りない俺が、悪いだけだ。


「シーニュはまだ最低でもあと半月は戻らないよ。だから、俺を頼ってくれないか? シーニュが戻るまでの間だけでも構わない」


 それでもエルシーは首を縦には振らなかった。シーニュ以外に話す気がないのか、一人で抱え込もうとしていた。彼女の精神状態はとても放っておけるような状態ではない。あまり強引に口を割らせたくはなかったが、サイラスはさらに踏み込むことを決めた。


 たとえ嫌われても……それでエルシーが救われるなら、俺は近衛騎士としての責務を果たす。


「……神託、本当は聞こえてるね? 俺に嘘が通用しないことは、エルシーが一番わかってるはずだよ」


 エルシーは逡巡するように、唇を小さく開いては閉じてを繰り返す。やがてぐっと固く目を伏せると、ため息を零した。


「わかりました。けど、約束してください。決して他言せず、わたくしに断りなく勝手に動かないと」

「あなたが望むなら、仰せのままに」


 胸に手を当てて姿勢を正す。聖騎士の敬礼を返すと、エルシーは意を決したように一つ(うなず)いて部屋に入れてくれた。


 エルシーに促され、サイラスは言われるままソファへと座る。互いに向かい合うと、エルシーは気まずそうに視線を落とし、忙しなく指を組んだりさすったりしていた。


「それで、どんな神託だった?」


 話を促そうと尋ねると、エルシーの表情が固くなる。暗い靄がじわりと濃さを増して、彼女にまとわりついていく。恐る恐る開いた彼女の唇は、震えていた。


『生命より出でし力を無に()する者、人の形を成して人にあらず。罪深き災いの芽となりて、混沌を唄う。災いの唄、聖の声を告げる者を冥府へ(いざな)い、光は閉ざされる。銀の刃にて断罪せしとき、その罪は洗われ、人々の安寧は守られるだろう』


 エルシーは苦痛を吐き出すように、神託の内容を口にした。それは内容を分析するまでもなく『アルエットは世界を混乱させる存在』『エルシーはアルエットの手によって命を落とす』『アルエットを断罪すれば平穏が保たれる』という内容だった。エルシーが頑なに内容を口にしなかったのは、口にした瞬間アルエットの処刑が確定してしまうからだろう。


「わたくしはアルエットがそんな人だなんて信じられません。なぜ始祖エーテルがこのような神託を授けたのかもわかりません。言葉を交わすことはできないので、彼女の無実を訴えることもできない……わたくしは、一体どうすれば良いんですか……?」


 サイラス自身も、アルエットがそんな人間だとは思っていない。嘘がつけなくて、感情を素直に表へと表現する。暗殺や企みとは無縁のような人だ。


 『感情視認』で視える感情は、偽ることが難しい。シーニュは以前、事故の経験から感情全てを抑えるようにしたと話してくれたことがある。表だけ見れば彼は制御しきっているように見えるが、『感情視認』の加護を通せば、顔や態度に出していないだけで何かしらの複雑な感情がきちんといろいろ視える。


 『感情視認』を通したアルエットも、表の顔と同じでかなりわかりやすい。むしろ裏表がないと言える。あんなにわかりやすく感情が読めるのであれば、何か企てれば一発で見抜く自信がある。


「エルシー、俺もアルエットはそんな人間には思えない。けど、神託として下った以上は……」


 それでも引っかかるのは、神託はこれまで一度も外れたことがないからだ。過去の事例と照らし合わせるのなら、アルエットはエルシーを死に追いやり、世界を混乱させることになる。ただそれが、アルエット自身が望んでのこととは限らない。何か事故に巻き込む形で神託の通りになる可能性はある。


「サイラスは、神託の通りになると思っているんですか!?」

「確信してるわけじゃないよ。ただ、エルシーも……神託の重さはわかってるよね。わかってるからこそ、怖いんじゃない?」

「もし本当にそうなるなら、民を守るためにわたくしはアルエットの処刑を命じなくてはなりません。けどもし……今回に限って外れていたら? 冤罪で彼女を死なせてしまう。何より、友人であるアルエットを殺したくなんてない……!」


 エルシーは自身の肩を抱き、震わせる。声はすすり泣くように掠れ、彼女の苦悩と痛みが滲んでいる。


 エルシーの心の痛みを和らげたい。「どんな選択をしても、考えでも、俺はエルシーの味方だ」そう言おうとして、ぐっと押し留めるように言葉を飲み込んだ。“何をしても肯定される”ことを『絶対正義』と名づけたのはエルシーであると、シーニュは言っていた。ともすれば笑えるほどに極端なその加護の名前にエルシーの絶望が詰まっている、とも。


 ここで「何をしてもエルシーの味方だ」と言うことは、エルシーの絶望を濃くすることだと気づけた。言葉を飲み込めた自分に、少しだけ驚いていた。


「もしあなたが間違えそうなときは、俺が……いや、俺たちで止める。シーニュとフィンチを呼び戻そう。二人は冷静で頭もよく回る。神託の重荷は、みんなで分担して背負えばいい。一人で決断を焦らなくていい。だからそれまでは嘘をつき通して、俺とエルシー二人の秘密にしておこう。いいかな?」


 情けない話だが、一人では到底解決してあげられる問題ではなかった。大切な仲間であるアルエットの命もかかっている。自分にできるのは、シーニュとフィンチが帰ってくるまでの間、エルシーが一人抱えるはずだった重荷と嘘を、少しだけ肩代わりすることくらいだった。


「サイラス……ありがとう……」


 顔を上げたエルシーが、一粒涙を零す。ハッとして慌ててポケットを確認したが、ハンカチが見つけられない。どうやら入れ忘れていたらしい。


「あっ……ごめん、ハンカチ持ってなかった……はは、カッコつかないね……」


 照れ隠しするように、エルシーの目元をできるだけ優しく人差し指で触れて拭った。思えば、子供の頃はこうしてエルシーによく涙を拭ってもらっていたと、少しだけ懐かしい気持ちになる。


「ふふ……昔はわたくしがあなたの涙を拭いてあげてたのに」

「そうだね。だから指の力加減が絶妙じゃないかい? エルシーに何度も教えてもらってるからね」


 どうやらエルシーも同じことを考えていたらしい。彼女の中にも自身の中に残る思い出と同じものがあるのがわかって、不謹慎にも嬉しくなってしまった。


 正義感の強いお転婆少女は聖女となり、穏やかで静かな女性になっていた。確かに変わってしまったけれど、その凛とした姿にかつての面影を感じると、密かに温かな気持ちになる。全てが変わってしまったのではなく、エルシーのまま聖女として変わっただけなのだと思えたから。


 何も言えず泣いてるだけだった子供が、あなたを支えられるくらい強い男になれたって……少しは思っていいのだろうか。


 心の中で静かに呟きながら、エルシーとささやかに微笑み合う。シーニュたちが戻るまでに、彼女の心が壊れてしまわないようにと、サイラスは密かに祈っていた。


 涙に濡れた彼女のまつげは、まだ乾いていない──

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