第35話 十年の時を越えて
ロートヴィル村の厄災の花の除去が完了し、アルエットたちは帰り支度を始めていた。ここからの支援は、領主であるアーヴェントロート辺境伯家が中心となる。
ただし、厄災の花が復活するようなことがないか、フィンチと彼の隊だけは経過観察と調査のために残留することになっていた。そしてシーニュも、万が一に備えて長期休暇を取得してシュネーノルディアに残ることになっている。シーニュは毎年この時期に長期休暇を取っており、例の事故で亡くなった部下の命日に近い日付で墓参りに行くためだと言っていた。
──短い夏の、青い匂いを乗せた風が吹いていた。
シーニュがシュネーノルディア王国騎士団を去るきっかけになった事故。ぽつりぽつりと口を開いて語るシーニュは、その日のことをそう表現していた。
アルエットは天を仰ぐ。フィオリアよりも幾分か淡く見える青空に、白い雲が伸びている。寒冷な気候であるシュネーノルディアの夏は、他国よりも短い。さわさわと背後から吹き抜ける爽やかな風に草木の匂いを感じて、「あぁ、この季節なんだ」と小さく胸が疼いた。
『俺を……殺してほしい』
不意に、あの夜のシーニュの言葉が蘇る。シーニュはアルエットを“この世界で唯一、俺を殺せる存在”だと言った。あのときは思考がいっぱいいっぱいで気づけなかったが、あれは自分で自分の命を断つことすらできない彼の悲鳴でもあった。そこに至るまでに……アルエットに縋るまでに、一度ではないであろう“失敗”があったことを暗に示していた。
シーニュはまだ今も……死にたいって思ってるのかな。
シーニュの願いを拒絶して、その後彼から謝られた。あんな願いはあの一度きりで、それに似た言葉すら聞いていない。けれど取り巻く環境は何一つ変わっておらず、彼は苦しみの中にいるままだ。
「アルエット、少しいいだろうか」
突然背後から声をかけられ、ぎこちなく肩が跳ねる。まさに今頭の中に思い描いていた人物……シーニュの声に、ぎゅっと心臓が縮んだ。ここに来たのが感情を視られるサイラスでなくて良かったと思いながら、動揺を悟られないよう静かに息を吸って振り返った。
「うん、いいけ……ど、え? あ、りょ、領主様!?」
「俺の父だ」
「あ、うん。知ってる……シーニュの姓、アーヴェントロートだったもんね……今思い出したとこ」
動揺を悟られないように、という努力も虚しく、氷漬けの肉のようにカッチカチに体が強張る。アーヴェントロート辺境伯……ロートヴィル村を含むフィオリアとの国境沿いを領地に持つ領主であり、代々続いている名家でもある。
そんな雲の上の人が、この吹いて飛びそうなちっぽけな田舎娘になんの用だろうか。税金は滞納していないはず、なのだが。
「アーヴェントロート家の当主でもある、スーヴァ・ルドベキア・アーヴェントロートだ。初めまして、アルエット殿。息子が世話になっているね」
淡い色の金髪はシーニュと同じだが、瞳は燃える夕日のようなオレンジ色をしている。そして無表情のシーニュとは対照的に、柔らかくて紳士的な微笑みを浮かべていた。彼がシーニュの父で、領主で、貴族で、名家の当主で……その肩書きを並べただけで頭が爆発しそうになる。
「あ、ぉぁ、は、はじめまして……アルエット・カルミア・スティーリア……デス。あの、シーニュ様のお世話になってるのは、私の方なん、デスけど……」
混乱している頭で精一杯、失礼のないように丁寧語で話すように心がける。せっかく夜のお茶会で、エルシーに何度も丁寧語を指南してもらったのだ。ここで活かさなくていつ活かすというのか。
「いえ、貴女には一度息子のことを救ってもらっている。十年前に」
「十年、前……」
十年前。そう言われたらもう『オヴィス村の悲劇』か『グラキエス防衛戦』くらいしか頭に思い浮かばない。けれどオヴィス村はアーヴェントロート辺境伯領ではなく、別の領地の村だった。
アルエットの名前は秘匿され、広くは知られていないはずだったが、やはり爵位を持った貴族ともなればそのくらい知っていて当然なのかもしれない。とはいえシーニュと一体なんの関係があるのかさっぱり見えてこなかった。
「私は貴女へ、謝罪と感謝のために来た。『グラキエス防衛戦』で、貴女は囮として雪原に立ったと聞いている。貴女がいなければ、あの場所に立つことになったのはシーニュだからね」
「え? そうだったの!? デスか?」
「俺の加護が『攻撃反射』だからだ。君同様、俺は魔竜の攻撃も、味方の砲撃も効かない。ただ、どこに跳ね返るかはわからないから、博打みたいな作戦にはなるが」
「シーニュも知ってたの!?」
「父上から、君の名を忘れるなと聞かされていた。だから君にも言っただろう、『俺ばかり一方的に君を知っているのは、対等とは言えない』と」
確かに言っていた。シーニュが王国騎士団を去ることになった事故について聞いたとき、なぜ話してくれたのかと尋ねた。それがそのときの答えだ。
そんな裏事情があったことを初めて知った。確かに囮になるのなら、シーニュよりはアルエットの能力の方が安全性が高くて向いている。おまけにもし万が一死んだとしても、貴族の令息と身寄りのない田舎娘ではその命の価値は雲泥の差だ。
「そうなんだ。じゃああのとき囮になったの、無駄じゃなかったんだね。じゃなくて、あの、無関係のシーニュ様が立つより、ずっと良かったと思いマスよ!」
利用し、利用され、死んでもいい覚悟であの雪原に立った。村と家族を奪った魔竜に一矢報いる、そんな思いだった。けれどあの選択が、シーニュを守ることに繋がったのなら、それだけで価値を見出せる。死んでも構わない存在にも、守れたものがあったのだと。
「貴女がそう思ったとしても、貴族の責務を果たさなければならなかった。だが私は身内可愛さに、貴女を立たせてしまった。村と家族を失ったばかりの貴女を危険に晒し、申し訳なかった。そしてシーニュを救い、今回ロートヴィルまで救ってくれたこと……心より感謝する」
スーヴァは、礼儀正しく深々と頭を下げる。とんでもなく偉い人から平身低頭に謝罪と感謝をされてしまったアルエットは、目の前の光景を飲み込めず呆然としていた。何が起こってるのか理解するのに時間がかかり、何も言わないせいで彼の頭は下げっぱなしになっている。
「うわー! 領主様! 頭をっ、頭を上げてクダサイ! こんなペンペン草に頭下げてるの見られたら、威厳がまずいことに! 北壁の件は元々私が適任だし、反射して味方に被害出るのが一番ダメだから、私で良かったと思いマスよ!?」
スーヴァはようやく頭を上げてくれたが、それでも罪悪感に苛まれたような表情で申し訳なさそうにしている。このショボくれた牧羊犬みたいな顔……シーニュとそっくりで血は争えないなと、アルエットは半笑いした。
「えぇっと……領主様みたいな偉い人にそんなふうに気にかけてもらえて、嬉しかったデス。ロートヴィルのことも、私の力の価値に気づいてくれる人がいたから役に立てただけで……あっ……」
そこまで言葉にして、脳裏に鮮やかな赤髪と瞳のエメラルドブルー……フィンチの姿が浮かぶ。今回アルエットの力に価値があると気づいてくれたのは彼だった。彼の知識や思考、判断、作戦がなければ、ロートヴィル村は厄災の花に沈んだまま燃やされて不毛の地となっていただろう。
「そうだ! 『無効化』の付与の仕方を教えてくれたのも、厄災の花に効果があることに気づいたのもフィンチ先輩デシタ! だからお礼はフィンチ先輩に、どうぞ……!」
頭の中のフィンチが、傲慢で自信たっぷりな顔でふんぞり返っている。「僕の功績だぞ、存分に褒め讃えなよ」と訴えているような気がして、スーヴァにもきちんと報告した。
「そうか。では後ほど、フィンチ殿のもとへお礼に伺うことにする」
「は、ハイ! ゼヒトモ……フィンチ先輩も喜ぶと思いマス!」
それまで真剣な表情だったスーヴァが、くすっと笑って表情を和らげる。柔らかく目を細めて小さく微笑んだ顔は、やっぱりシーニュの笑みによく似ていた。
「十年かかってしまったが、今回貴女に出会えて……貴女を知れて良かった」
「お、おぉぉ……!? お、おそれ……おそ、おそれお……?」
「畏れ多い、だ。無理に畏まらなくていい。父上に対する粗相くらい俺がなんとでもごまかそう」
「シーニュ様ッッッ!」
必死にエルシーから教えてもらった言葉を引っ張り出しているところを、シーニュに答えをバッサリと提示され、さらには失敗もごまかすときた。これまでの丁寧語での必死な頑張りはなんだったのか。
せめてもう少し早く言ってくれ。もしくはここまで黙ってたなら生温かく見守っててくれ。何より、本人を目の前に「ごまかす」とか言ってはいけない。絶対に。
「ふ……はは……なんというか、貴女は素直すぎるくらい、素直な方だ。社交場も貴女のような方たちの集まりなら、幾分か楽しいだろうに」
「父上」
「すまん、つい本音が。言葉のままで含みはない。どうか気を悪くしないでほしい」
「大丈夫、デス!」
スーヴァは少しだけ気まずそうに、苦笑していた。それはアルエットの知る『アーヴェントロート辺境伯』の姿とは少しだけ異なっていた。
アーヴェントロート辺境伯の話や噂はこの高原地帯の田舎にも届いている。アルエットは、彼の悪い話を聞いたことがない。人当たりが良く、領民にも分け隔てなく接する人格者。領地全体にムラなく手厚く目を行き届かせ、交渉事も得意で隙のない人物だと聞いていた。
本来のスーヴァは、こんな抜けたところを人前に晒すような人ではないのだろう。丁寧語が上手くいかず、てんやわんやしているアルエットに対し、わざと隙を見せて、二人で小さな芝居を打ってくれたのだと感じた。
「あの、声をかけてクダサッテ、ありがとうゴザイマシタ」
「こちらこそ。では私はこれで失礼する」
平民相手に、スーヴァは丁寧に頭を下げてから去っていく。彼の凛とした背中から、領地の中でも不便なところにあるロートヴィル村のことも大切に思ってくれているのが伝わってくる。悪い噂を聞くこともなく、皆から慕われているのも納得だった。
「君を殺すために私に身に着けさせた力、人助けに使ってやったよ。力の付与を教えるように命じた君の功績だよ、シーニュ」
この場に残っていたシーニュにほくそ笑んでみせると、シーニュは村の方へと視線を向けて逸らした。彼は黙したまま無表情で、何を考えているのかわからなかった。
誰かを傷つける前に死んでしまおうとしたシーニュ。力の使われ方は意図した目的とは違うし、彼にとっては皮肉かもしれない。それでも、彼のおかげで掴み取れた平穏があることを少しでも実感してほしかった。
荷造りが終わり、アルエットたちはロートヴィル村を発った。伯父と伯母に別れを告げ、馬が駆けるごとに懐かしい景色は遠ざかる。次にここに帰ってこられる日がいつになるかはわからない。
もし次に帰ってくるときは、もっと穏やかに、笑顔でただいまと言えるように。そこまで考えて頭を振った。そんな来るかもわからない先のことを考えたって仕方ない。今はただ、エルシーやシーニュの友人として、そして聖騎士として、役目を果たそう。
滅びの神託という難局を乗り越え、また通常公務に追われる日々へと戻っていく──そう思い込んでいた。
“世界”は緩やかに、“異物”の排除に向けて動き出していく。その静かな合図が、すぐ背後にまで迫っていた。




