第31話 絶望の今日、虚無の明日【シーニュ視点】
「……手遅れだから、何? 諦めろって? ふざけんな……ナメやがって……!」
アルエットらしい負けず嫌いな言葉で、強気な声で叫ぶ。厄災の花という絶望の深さへの無知なのか、その深さを知ってなお希望を捨てないのか、彼女は自身の足を殴りつけると一直線に走り出した。
「はぁ? 止めたのになんで行くわけ!? なんでわかんないんだよ、あのバカは……!!」
フィンチはアルエットを罵倒し、強く怒りを露わにしている。けれどその声の微かな震えに、「言わなくていいなら言いたくなかった」「誰に言われなくても手遅れだと察してくれ」という気持ちが滲み出ていた。
本当であればシーニュがアルエットに現状を説明し、説得しなければならなかった。たまたまアルエットの近くにいて制止させたのがフィンチだったことで、「手遅れだ」と伝えるつらい役目を彼が負うことになってしまった。
フィンチはいつも辛辣な言葉と強気な態度をとるが、本当は繊細で傷つきやすい。むしろそうだからこそ、相手に隙を与えないようにしているとも言える。
フィンチは十四歳でエルシーに抜擢されて叙任され、すぐに隊長として隊を率いるようになった。十四歳で叙任されたシーニュ自身の境遇とよく似ていた。
シーニュは十六歳のときに部下を死なせてしまった。フィンチもちょうど今、十六歳だ。十六歳というのはまだ未成年で、本来ならまだ守られるべき子供なのだと、成人した今はそう思う。だから彼が、自分と同じような思いをして騎士団を去るようなことがあってはならないと……常々思っていた。
「フィンチ、アルエットは俺がなんとかする。皆の指揮はひとまず君に託す」
「……わかった。あんたは加護があるからいいけど、アルエットは瘴気を無効化できるかわかんないんだから、早く連れ帰れよ」
「あぁ。君にはつらい役目をさせてしまってすまなかった」
「ホントだよ……バカの相手してると頭が痛くなる」
シーニュはフィンチの肩を軽く叩くと、彼は顔を背ける。不機嫌そうなフリで強がって、フンと鼻を鳴らしていた。
どの道、厄災の花の傍へ行ってしまった時点で、アルエットを止めるのはシーニュの役目になる。通常瘴気の濃い場所での任務は、瘴気避けの緩和術を使用する。けれどシーニュは『攻撃反射』の加護のおかげで瘴気にも侵食されない。安全を第一優先するという意味でも、シーニュが行くのが適任の状況だった。
「アルエット!」
厄災の花に向かって暴れているアルエットへ、遠くから声をかけながら駆け寄っていくが返事はない。近づいてくると、ようやく彼女がただ暴れているわけではないことに気づく。
厄災の花を鷲掴みにしては、一心不乱に引き千切り、目もくれずに投げ捨てる。厄災の花の蔓はバラのように棘があり、彼女の手や腕はすでにズタズタに傷ついていた。
「厄災の花の傍は瘴気が濃い。すぐにここを離れた方がいい」
すぐ傍で声をかけても、アルエットは返事もしなければ、離れようとする素振りも見せない。鬼気迫る表情で、ただただ厄災の花を睨みつけていた。
「聞いているのか、アルエット」
そうして、まるで痛みなど感じていないかのように、躊躇いもなく厄災の花に掴みかかっては引き千切り、掴みかかっては引き千切りを繰り返す。棘は手袋を貫通し、白い布地は真っ赤に染まっていた。
「もうやめろと言っている……!」
見るに耐えかね、アルエットの腕を掴んで強引に引き離そうとした。それでもなお抵抗し、厄災の花へと手を伸ばそうとする。腕を掴んだだけでは止めきれないと判断し、シーニュは後ろからアルエットへ腕を回し、肩を固定する。思うように腕を伸ばせなくなってもがくアルエットを力づくで厄災の花から引き剥がした。
「離して! 花がなくなれば、ロートヴィルはまだ──」
「現実を見ろ、アルエット!」
アルエットの体がビクリと跳ね、まるで石像にでもなったのかと錯覚するほど硬直した。大きく見開かれた淡い青の瞳の中が、まるで厄災の花を活けたように、残酷なほどに美しく不気味に飾りつけられている。
「あぁ、あぁぁ……ああぁぁあぁ……!」
彼女は唇を震わせ、言葉にならない絶望に力なく悲鳴を漏らす。じわりと滲み出した雫は大粒の涙となって溢れ出し、頬を伝っては、一粒、また一粒と零れ落ちていった。
いつも朗らかに笑って、悲しみや痛みすらも笑い飛ばしてしまいそうなほど強く見えるアルエット。けれどシーニュは脆く崩れるその姿を、もう意外だとは思わなかった。
『ぁ……あぁ……ど、して……シーニュ……』
軽く叩かれる痛みすら感じることを許されないこの体に、刃を突き刺した不思議な夜。初めて知る痛みと共に、彼女の涙を見た。腕の中で小さく震えていた温もりを──確かに覚えている。
「やめて……返して……返してよ……!!」
最早無意識なのか、アルエットの足が再び厄災の花へと吸い寄せられるように踏み出される。シーニュはとっさに腹部へ腕を回し、後ろへ引くようにきつく抱き寄せた。
「……なんで、止めるの……! 私のやりたいようにやるんだから、ほっといてよ!」
「頼む……もう、やめてくれ」
もうどうにもならないとわかっていて、それでも失いたくないという思いは痛いほどに伝わってくる。無謀だとしても何かをしていないと心を保っていられないほど、アルエットの心は壊れかけている。それをなんとかしたくて、けれどどうしていいのかシーニュにもわからず、ただただ抱き寄せる腕に力を込めた。
「自分の手を見るといい。その手を、君は家族に見せられるのか?」
アルエットは俯くと、血に染まった両手を握りしめて目を伏せる。閉じられたまぶたの隙間から零れる涙は止まらず、呼吸を震わせながら嗚咽を漏らしていた。
腕の中の彼女の背中が小さくて、心許なくて、痛々しい。怒りと悲しみを零し続けた体は熱く、まるで燃えているようだった。
「君がほっといてくれと頼んでも、誰も放ってはおかないだろう。君は君が思う以上に、周りから慕われている」
アルエットは何も言わなかったが、もう厄災の花へ突っ込んでいこうとはしなくなっていた。シーニュが戻るように促すと、アルエットは袖で目元を何度も雑に拭いながらもおとなしく従ってくれた。
シーニュは気取られないよう、息苦しさを逃がすように何度か小さく咳払いする。アルエットに触れている間、『攻撃反射』の加護が無効化され、瘴気の影響を直に受けてしまった。
一方でアルエットは特にそんな素振りはない。恐らく彼女の『無効化』は瘴気にも適用されるのだろう。
元来た道を二人で歩いていると、フィンチが大きな敷布に人を乗せてこちらへと飛んでくるのが見える。高度を下げると、彼の後ろに乗っていた人物が二人降り立った。
「アルエット……!」
「モーガンおじさん……リタおばさん……」
涙声のまま、ぽつりとアルエットは呟いた。彼女の伯父と伯母は、心配そうな表情で駆けてくる。その勢いのまま、伯母の方がアルエットを抱きしめた。けれど彼女は抱きしめ返すことなく、血塗れの手を後ろにそっと隠した。
「おかえり……おかえり、アルエットちゃん」
「ただいま……」
「あの変な花から瘴気が出てると聞いた。アルエット、体はなんともないか?」
「大丈夫、心配しないで」
アルエットは覇気のない声で取り繕い、弱々しく笑みを貼りつけている。彼女の伯父と伯母もさすがに付き合いが長いせいか、強がって見せているだけだと察しているようだった。
「……そうか。アルエットが無事なら良かった」
「村が……不毛の地になっても……?」
「村のことは残念だけど、アルエットちゃんに何かあるくらいなら、なんもしなくていい。領主様も生活の支援をしてくださるって言ってたし、きっとなんとかなるよ」
彼らはアルエットの強がりと嘘を追求することはなかった。ただただアルエットを抱きしめ、慣れない騎士の仕事を遠くの地で何ヶ月も頑張ってきたことを労い、村の危機に駆けつけてくれたことへの感謝を伝えていた。
* * *
その後、拠点として設営した天幕郡へと戻り、アルエットの伯父たちとは別れた。アルエットの手の処置のため、シーニュはフレイヤからアルエット用にと持たされた応急処置の道具を持って、彼女の天幕を訪ねる。
「アルエット、手の傷の処置に来た。入って問題ないだろうか」
「うん、大丈夫」
入口の布を捲ると、敷布に座っているアルエットが見えた。力なく微笑む彼女の瞳は木の洞のように暗く、空虚だ。じっと見られていると底のない暗闇に引きずり込まれるようで、胸の奥が小石のように固くなったような気がした。
彼女の傍らには血に染まった手袋が置かれており、手の内側の部分は裂けてボロボロになっている。濡れたタオルを手渡すと、彼女は黙り込んだまま血に塗れた手を拭い始めた。
「手を出してくれ」
血を拭い終わった手を、アルエットはすんなりと差し出す。あれだけ手袋が裂けていたのだから、当然と言えば当然なのだが、手のひらや指にも裂傷が幾重にも残っていた。道具入れの中から塗り薬とヘラを取り出すと、アルエットはあからさまに嫌そうな顔をした。
「それ……まだ残ってたんだ」
「よく効いただろう。その程度なら明日くらいには塞がってるかもしれないな」
以前アルエットが腕に大怪我を負った際、ロンディネが取り寄せたという高級魔法薬。塗ると傷口に途轍もない激痛が奔るとかで、アルエットは怯えて塗布を拒否していた。
けれど、そうもいかない。特に今回は自業自得の面もある。罰だと思っておとなしく処置を受けてもらうしかない。薬瓶から黄みがかった白いクリームをヘラで掬い、血の滲む傷口へと乗せた。
「ぐぅぅ……痛たたぁ……っ」
アルエットは声を押し殺しながらも、手のひらを握りしめて我慢することもできず、痛みをこらえて悶えている。眉間に深いシワを刻んで固く目を閉じ、顔を真っ赤にして下唇を噛みしめていた。
相当な痛みを我慢していることは伝わってくるが、シーニュは人生で痛みを感じた経験がほぼないせいか、どんな痛みなのかまでは想像がつかない。こうして小さく悲鳴を上げるアルエットの手に、容赦なく薬を塗り広げられるのも、そういう想像の乏しさのせいかもしれない……ということにしておいた。
両手のひらに薬を塗り終わり、ガーゼを当ててから包帯を巻いた。瘴気中毒症の処置くらいしか経験はなかったが、問題なく手当てし終えることができた。
「ありがとう。両手使えないから、助かった」
「そこは気にしなくていい。それより、少し気分は落ち着いたか?」
「うん、薬の激痛で頭冷えた。もう厄災の花を千切りに行こうとは思ってないし、大丈夫」
「そうか……」
家族や住んでいた村を、たった一瞬にして奪われた経験のあるアルエットが、今回のことに冷静でいられるわけもなかったのだ。
彼女は聖騎士団に籍を置いてはいるが、訓練をし、経験を積んで耐性をつけてきているわけではない。村の惨状を見て激しく動揺し、一時的に取り乱しはしたものの、まだ平静を保っている方だろう。
一度目の被災地であるヴェルティムの件は詳しくないが、二度目の被災地であるネロックにはシーニュも任務として赴いた。被害地域は田畑も家屋も問わず、全てを炎で焼き払った。そうして行き場を失った人々の中には、絶望から命を絶った者もいたと聞く。
ロートヴィル村の避難民の中には、一時避難用の天幕の中で、ずっと泣いて塞ぎ込んでいる者もすでにいる。二度も理不尽に大切なものを奪われたアルエットが、そうならないとは言いきれなかった。
「いいものを持ってきた。少しだけだが、受け取ってくれ」
アルエットは包帯の巻かれた手のひらをぼんやりと見つめながら、軽く握ったり開いたりを繰り返している。その手の甲に、左手で掬うように手を添え、持ってきた小袋の中身を手のひらの上へ出した。
「干しブドウだ。明日からも忙しいからな。少し甘い物を食べておくといい」
こういう元気のないときこそ、本当はアルエットが気に入っているチョコレートやクッキーを差し入れてあげたかったが、任地でというのは難しい。保存が利くからと干しブドウだけでも持ってきておいて正解だった。
促すように一粒口に入れて見せると、アルエットもつられて一粒口に含む。そのままゆっくりと噛み締めるように咀嚼し、やがて小さく口元を綻ばせた。
「……おいしいね」
そうしてまた一粒口にし、星の瞬きのように頼りない光の宿った瞳から、ほろりと涙が零れる。心に刻まれた傷の深さに、シーニュは静かに言葉を失った。泣きながら微笑む彼女に、何を言ってあげればいいのかわからなかった。
ただ、心配だった。こんな事態になって心の傷も戻らないまま、薪を焚べるように笑みを浮かべ続けているアルエットが。
シーニュに、ロートヴィル村を救う力はない。心の痛みも、手のひらの傷も治してはやれない。こうして隣で、一緒に干しブドウを食べることしかできない。自分も大概無力な人間だと思い知らされる。噛みしめた干しブドウは甘く……ほんの少しだけ渋かった。




