第30話 無力な祈りを抱きしめて
厄災の花に蝕まれれば、命の一切を受け付けない不毛の地へと変わる。植物は育たず、動物も育めず、人が生活を営むのには限りなく厳しい環境。村を強制的に去らなければならなくなったみんなは、一体どこへ行くのだろう。そして自分は、一体どこへ行けばいいのだろう。
「私は、どこに帰ればいい……?」
零れ落ちた問いに、誰も答えてはくれなかった。けれど肩に、そっと誰かの手が添えられる。それは大きくて、少し固い……確かな温もりのある手だった。
見上げるとシーニュと視線が合う。夜のような紺色に灯火のような柔らかな茜が、行く道を照らすように彼の瞳に灯っている。
「被害を最小限に食い止めるため、今晩ここを発つ。住民の避難と調査のために俺と君、フィンチの隊が鉄道経由で先行する。父……アーヴェントロート辺境伯にも速達で書簡を送った」
見守るようなシーニュの静かな眼差しに、行き場を失った焦燥が鎮まっていく。ロートヴィル村は、シーニュの実家であるアーヴェントロート家が治める領地内に位置している。シーニュにだってきっと思うところはあるはずなのに、彼はいつも通りの無表情で落ち着いていた。もっと感情を見せればいいのにと思っていたのに、今だけはその“無風さ”がありがたかった。
「みんな……やれることは、やってるんだよね……」
故郷じゃないから、無関係の土地だから、ここにいるみんなはそんなこと一欠片だって思ってはいない。そもそも後から呼び出して伝えたのも、理解のある人たちしかいない静かな場所で、どんな反応を示しても受け止めようとしてくれたからこその形なのだとアルエットは感じていた。
「今晩行くんだよね。大丈夫、私ちゃんと行けるよ」
神託が下りただけで、まだ何も始まっていない。滅びを予告されただけで、先手を打てば村を救える可能性はまだ十分に残されている。過去の二回と同じ道を辿るとは限らないのだから。
その後すぐに執務室を出たアルエットは自室へ戻り、まとめた荷物を引っ掴んで外へ出た。出発の時刻までまだ時間はあるが、先を急ぎたい気持ちが収まらず一人でそのときを待っていた。
* * *
「早く行けば間に合うはず……大丈夫、大丈夫……」
アルエットは道中何度も自分に言い聞かせ、沈みそうになる心を奮い立たせてきた。ロートヴィル村から王都トランチェレスティナへ来たときは、馬車と鉄道で一週間ほどかかった。恐らく今回はかなり急ぐため、一週間まではかからないだろう。それでも明日明後日で到着できる距離ではなかった。
お願い。私はもう二度と、大切な場所を──
祈りを胸に抱いて、アルエットはひたすらにロートヴィル村を目指す。最寄りまで鉄道を使って移動し、その後は馬が移動手段になった。馬を時折休ませながら、ギリギリまで休憩を削って走り続ける。そうしてロートヴィル村に到着したのは、トランチェレスティナを発って五日後のことだった。
懐かしい高原の風に、嗅ぎ慣れない甘ったるい匂いが混じる。村へ近づけば近づくほどに、匂いは濃くなっていく。
村へと辿り着いたとき、そこに見慣れた故郷の景色は──もうなかった。
「……なに、これ……どうして……」
懐かしい面影を微かに残して、ロートヴィル村の風景は一面びっしりと埋め尽くされた花に沈んでいた。
薄気味悪く発光する鮮烈な青に、血を垂らしたような真っ赤な斑点模様が浮かび上がる極彩色の花弁。毒々しい紫色の蔓は地表を覆い隠し、家や小屋までもを飲み込もうと深く絡みついている。その蔓から、手のひらを軽く越えるほどの大ぶりな花がひしめき合うように咲き乱れ、燃えるような夕日に照らされていた。
こんなに……花に埋もれてるなんて……もう……
手遅れになれば土地は穢れ、村を放棄しなければならなくなる。手遅れになる前に、何としてでも取り払わなければという使命感と焦りに追い立てられ、アルエットは無我夢中で馬の背から飛び降りた。
そのままの勢いで走り出すと、前につんのめり、足が縺れる。それでも足を前へと踏み出し、村の方へと向かおうとして……腕を捕まれ、後ろへと強引に引っ張られた。
「おい、止まれって! 近づいたら瘴気中毒になるだろっ!」
蹌踉めきながら後ろを振り返ると、すぐ目の前にフィンチがいた。アルエットの腕を掴む力は、年下とは思えないほど強い。強烈なほどに鋭い光を秘めたエメラルドブルーの瞳が、アルエットを睨みつけて縫いつける。
「そんなのどうだっていい! 離して! このままじゃ手遅れになる……!」
「──っ!」
アルエットはフィンチの手を乱暴に振り払う。彼の怒りと苦悩の募った唸り声をその場に置き去りにして、駆け出した。
「……もう手遅れなんだよ……そんなの見たらわかるだろ!? 一々僕に言わせんな……!!」
なりふり構わないアルエットを叱りつけるように、フィンチの容赦ない言葉が後方から飛ぶ。その叫びは微かな震えを伴い、うわずっていた。
後ろから見えない槍で心臓を貫かれたような衝撃が、胸を食い破るように突き抜けた。呼吸の仕方を忘れ、息が掠れた音を立てる。途端に足から力が抜けて走れなくなり、やがて緩やかに立ち止まる。
アルエットは呆然と、瞬きもせずに花に飲まれた村を見つめていた。乱れた自分の呼吸と、叩きつけるような鼓動に感覚が支配されていた。
──わかってたよ。言われなくたって、わかってた。もう、ダメなんだって。
でも、それでも……信じたくなかった。優しい声が、温かな笑みが、燃えて灰になっていく。ここで暮らした十年が嘲笑われ、踏みにじられたような気がした。
始祖エーテル。神というものがこの世に本当に存在するのなら、絶対に許さない。なぜ二度も帰る場所を奪われなければならなかったのか、徹底的に問い詰めてやりたい。正直、目の前にいるのなら殺してやりたいとさえ思うほど憎らしく思えた。
「……手遅れだから、何? 諦めろって?」
この村は、こんな花に押し潰されて沈んでいい場所じゃない。穏やかな営みがあって、温もりに満ちていた。
神なら、そのくらい知ってて当然でしょ。
何してくれてるんだよ。
「ふざけんな……ナメやがって……!」
アルエットは、どこかでほくそ笑んでいる神に吼えた。村を埋め尽くしている厄災の花を憎み、自身の運に見放された人生に対して腹が立った。
アルエットは悔しさごと拳を握りしめ、動かない足を殴りつける。全てを飲み込もうとする雪崩のように高く盛り上がった厄災の花を睨みつけた。一歩、二歩と前進し、地面の確かな感触を蹴って、厄災の花を目がけて走り出す。
毎日水を汲みにいった井戸。かがり火を囲んで、祝祭を祝って踊った広場。よく歩いたパン屋までの道。道端で談笑する声。一歩進むごとに、思い出が零れ落ちていくようだった。
厄災の花の最前線に辿り着き、その蔓を無我夢中で鷲掴みにした。その瞬間、手のひらに鋭い痛みがいくつも突き刺さる。アルエットはそれに構うことなく、蔓を引き千切って後ろへと放り投げた。厄災の花の蔓にはバラの花のような棘が生えているらしく、それが手袋を貫通したようだった。
どうせこの程度じゃ死なないんだから……こんな痛み大したことない……!
アルエットは両手を使って掴んでは厄災の花を引き千切っていく。手のひらが傷ついてズタズタになっていく。手袋まで裂け、ぬるりとした感触が指に伝わってくる。
それでもアルエットの動きは鈍ることなく、なおも厄災の花へと手を伸ばし続ける。この頃にはもう痛みすら感じなくなっていた。恐怖も、涙も、絶望も──不要な感情ごと、引き千切って投げ捨てた。




