第23話 あぁ、この選択は……
暗闇の中、朧気な視界。アルエットの瞳に何かが映る。フィオリアの夏の夜にしてはひんやりと冷たい空気感に、微睡みが覚醒していく。
暗く、飲まれるような夜の闇。青白く凍てついた空気が、体を内側から凍らせていくように体温を下げていく。
──アルエットはなぜか、氷漬けの森に戻ってきていた。
眠る前にあの場所にいたときと同じように、感情の見えない表情をしたシーニュが立っている。あのときと違い、握らされたあのやたら高価そうな短剣の鞘が取り払われ、刃が剥き出しになっている。そしてその刃をシーニュに向けながら、柄を両手で握りしめて構えていた。
なんで……私、断って帰ってきたはずなのに……!
シーニュが、何も言わず静かにこちらへと近づく。来るな、と言おうとした唇が動かない。構えを解こうとした体も、逃げようとした足も、景色と共に氷漬けにされてしまったように動いてくれない。まるで別人の体に入って、目の前の光景だけを見せつけられているように。
そうしているうちにシーニュは、短剣の柄を握りしめるアルエットの両手を掬うように包み、切っ先を彼自身の胸元へと定める。
ダメ……ダメだって。
私はやらないって言ったじゃん、シーニュ……!!
彼の両手がアルエットの両手を固く握り、腕全体に押されるような重みがかかる。
刃が──躊躇いなく彼の胸に沈んだ。
肌を突き破り、肉を刺し貫く生々しい感触が手のひらをざわざわと這い上がってくる。腕へ、体へと染み渡り、全身がガタガタと震え出した。声は出ず、唇もまともに動かせず戦慄き、空気を求めて喘ぎながら、涙が止まらなくなった。
シーニュは、小さく咽せて血を吐く。けれど、今までに見たことないほどに感情豊かに微笑んでいた。嬉しそうで安らかで、全てが満たされたような……そんな顔で。
「これが……痛み、か」
シーニュの瞳が僅かに細まると、微かな陰りを帯びる。両手を握っていた彼の手はアルエットの背へと回り、ぎゅっと抱きしめられた。
抱き竦めるように、ぐっと引き寄せられ、短剣は更に深く……根元まで沈み込み、背中を突き抜けた。生臭い鉄の臭いと、シーニュの体温。静かに伝う生温かい感触が、短剣の柄を握りしめる手を音もなく濡らしていく。
「ぁ……あぁ……ど、して……シーニュ……」
やっと口にできた言葉は、そんなどうしようもない、意味のない言葉で。でももう、取り返しがつかないのが現実で。目の前の光景を信じたくなくて、信じられなくて。とうとう頭が拒絶したのか、視界は真っ暗に閉ざされる。傍に感じるシーニュの呼吸が、微かに震えたような気がした。
「君でも、そんなふうに泣くんだな……」
暗闇の中に一言、雨粒のように──静かな彼の声が落ちた。
* * *
「……っ! っは、はぁ……はぁ……」
アルエットは下から殴りつけられたかのように飛び起き、毛布を跳ね除けた。心臓が、馬の蹄の音のようにけたたましく響いている。叩きつけるような音と自身の乱れた呼吸だけに耳が支配され、今自分が天幕にいて、朝を迎えたことに気づくのに少し時間がかかった。
「ゆ、夢……? 夢、か……はあぁ〜……夢かあぁぁぁ……」
天幕の隙間から差し込む朝日と朗らかな鳥のさえずりに緊張が和らぎ、アルエットは薄手の敷布の上に倒れ込んだ。
上に向けて右手を伸ばすと、夢の中の出来事が脳裏をよぎる。冷たくて固い、短剣の柄。人体を短剣で突き刺す重み。生温かい血。体温と息遣い。背筋が凍るような感触の全てが、まるで現実のことのように生々しく蘇った。
カタカタと震え出した両手を、思わず洗うようにこする。一滴の血もついていない手を見て、静かに息を吐いた。
「やっぱ、昨日の私、間違ってなかった」
夢の中でシーニュを殺したことで、殺さないことを選んだ自分の決断に確信を持てた。怒りやら憎悪やら悲しみやら軽蔑やら、とにかくいろんな感情に呑まれて冷静ではなかった。殺してあげることが救いであり正しさだったのかもしれない、自分はどうすれば良かったのか、と揺らいだ。けれど今は違う。
死なせない。殺してなんかやらない。
アルエット自身が一日一日を踏みしめて生きてきたように、シーニュにも血反吐を吐かせながら一日一日を歩かせてやる。朝が来て、今日という“今”が始まる。どんな感情の底にいようと、そこからは逃げられない。
だから私は今日も──後悔がないように、明るく楽しく生きる。
外からはすでに起床した騎士たちが朝の準備を進める声が遠くから微かに聞こえてくる。時間に遅れないよう、アルエットも急いで支度を始めた。
支度を終えて天幕から出ようと開くと、目の前の何かに思いきり鼻面をぶつけた。用があったのかなんなのかわからないが、もう少し入口から離れているべきだろうと内心文句をつけつつ、鈍く痛む鼻をさすりながら見上げる。
「うわっ、何? シーニュ!?」
天幕の入口の真ん前で棒立ちになっているシーニュと目が合う。なぜ、という思いと、立ってないで声をかけたらよかったのに、という思いが渦巻きながらも、彼のいつも通りの無表情が見られて、不本意にも嬉しくなってしまった。
「よかった……やっぱ夢だったんだ」
「夢……?」
シーニュは微かに驚きを滲ませて目を丸くし、不意に視線が下へと落ちる。そして指先で──そっと胸元を撫でた。
その瞬間、夢の中で彼の胸元に短剣が刺さった瞬間の感覚を思い出し、指先から腕がざわつく。妙な緊張感に包まれ、アルエットの背筋にゾクッと静かな震えが走った。
偶然、偶然……だって、ちゃんとシーニュ生きてるし。
「別に、なんでもない……それより何しに来たの? 投げ捨てた短剣の弁償なら、絶っっっ対しないからね」
「……いや、剣の話じゃない」
シーニュは僅かに視線を逸らし、小さく彷徨わせる。そうして一つ瞬きしたあと、息を静かに吐き出しながら、アルエットをまっすぐに捉えた。
「その、昨夜は……申し訳ないことをした。君の優しさに、甘えていた。どんなときも君は明るいから……耐えられると勘違いしていたんだ」
言葉を紡ぐごとに、気まずそうに視線が下へ下へと下がっていく。まるでショボくれたでっかい牧羊犬のような体たらくに、思わず深いため息が漏れた。
「はぁ? ダッサ……」
謝られたからといって、すんなりと許す気にはなれなかった。あれだけ人を蔑ろにして踏みつけたのだから。けれど、絶望と諦観に沈んだ人間が一人生きる苦しさはアルエットにもわかっている。
「シーニュは、みんなが憧れる聖騎士団長様なんでしょ? だからシャンとして。昨夜のことは……今後の君次第で決める」
アルエット自身も決して一人で立ち上がれたわけではない。今のように思えるようになったのは、アルエットを見捨てず、我が子のように愛情を注いでくれた伯父夫婦のおかげだった。
許さない、けど……見捨てたりはしない。
ちゃんと生きようとしてくれる限りは。
「……ありがとう、アルエット」
「なんでちょっと嬉しそうにしてんの!? 反省しろ!」
珍しく、はにかみながら目元を和らげて笑ったシーニュにちょっとだけ腹が立った。本当にわかってるのか、という疑念を手に込め、彼の胸を強めに小突いてやった。けれど、なぜかそれも嬉しそうにされてしまい、アルエットはもう一度ため息をついて呆れるしかなかった。




