第22話 脆くて、強がりな君
天幕の中で、アルエットは明日に備えて就寝の準備をしていた。外に微かな人の気配を察知し、明かりを消そうとした手を止めて息を潜める。地面を踏みしめる足音は一定の速度で近づき、やがてアルエットの天幕の前で止まった。
「誰?」
「シーニュだ。遅くにすまない。君と少し話したいことがある」
「わかった。準備するから待ってて」
気配の主がよく知っている相手だったことに安堵しつつ、アルエットは脱いでいたブーツを履いて外に出る。シーニュには人のいないところで話したいと言われ、町の外へと向かうことになった。
もしかしたら夕方の『攻撃反射』と魔力暴走の件で何かあるのかもしれない。アルエットはそんな予想を立てて、シーニュの背中を追った。
* * *
「ねぇ……どこまで歩くつもり?」
シーニュの歩みは止まらず、すでに町からはそこそこ離れてしまっている。まだ遠巻きには見えているものの森の中へと入っており、そこまで警戒する理由が見えず戸惑っていた。
「……まぁ、ここまで来れば問題ないだろう」
シーニュはそこで足を止めると、魔力をまとい始める。空気や森の木々がにわかにざわつき、振り向きざまに魔術を放った。薙いだ手の先の景色が、バキッとけたたましい音を立てて凍りついていく。そしてアルエットだけを残して、周囲の全てが氷の世界へと変わっていた。
氷漬けにされた地面や木々は真っ白になり、まるで冬期の故郷の森の中にいるような錯覚に陥る。時間を無理やり止められ、生命の息吹ごと閉じ込められたように、静寂が下りた。
「ちょっと、いきなり何? 私じゃなかったら死んでたかもなんだけど」
突然攻撃をしかけられた理由が見えず、困惑している。けれど“傷つける”ことや“殺すこと”が目的でないことはわかる。『無効化』の性質をよく知っているはずのシーニュが、攻撃手段として魔術を選ぶはずがない。それも、本人が苦手だと自覚している魔術という手段を。
シーニュは無言のままアルエットに近づき、左手首を掴まれる。すると彼は、いつも予備で帯刀している短剣を腰のベルトから外し、それを鞘ごと左手の上に乗せて強引に握らせた。
「え、短剣? 私、短剣なんて使ったことないけど……まさか槍から短剣に転向しろってこと?」
何も言わないシーニュが不気味で、急に攻撃された意味もわからなくて、とにかくこの空気を和らげようと冗談めかしてみた。けれどシーニュはそれに乗ることもなく、夕闇色の瞳は光を失って昏く沈んだまま、静かにアルエットを見つめた。
「俺を……殺してほしい」
──言われた言葉の意味が、わからない。
「……なーに言ってんの。そんな冗談やめてよねー!」
「君を聖騎士団に招いた、最後の理由だ。『無効化』の力を持つ君だけが、この世界で唯一……俺を殺せる」
いや、本当は意味はわかっていた。ただなんとか、精一杯なかったことにしようとしていただけだった。けれどシーニュはそんなアルエットの努力を嘲笑うかのように、顔色一つ変えず言葉を続ける。
「以前、俺の加護がエルシー様を害していると話しただろう。もうすでに君はエルシー様から信頼を得ている。君がいれば、エルシー様は俺がいなくとも立ち直れるはずだ。つまり、俺の役目は終わったということだ」
「いやいや! だからって、別に死ななくても……」
「今日、君は見たはずだ。俺は生きているだけで、罪のない人を殺しかねない。全ての不穏を根底から取り払うために、俺は死んだ方がいい」
『攻撃反射』のせいで、シーニュは絶対に傷つかない。その代わりに、跳ね返した力は相手を容赦なく傷つけてしまう。
アルエットの無効化は、その力を取り払える。それは過剰な暴走や意図せず傷つけてしまうことを止める力であると同時に、加護を突き抜けてシーニュ自身を傷つけることができる力でもあった。
そのことには薄々気づいていたが、あまり考えないようにしていた。それは、仲間であるシーニュにとって不利益となる存在であることを認めたくなかったからなのかもしれない。
だから、シーニュにだけは……言われたくなかった。
私がシーニュを傷つけられる存在だ、って。
「……冗談じゃない。できるわけない、そんなこと……だってずっと、一緒に戦ってきた仲間じゃん……!」
シーニュの気持ちが全くわからないわけではない。彼が語った、傷つけたくない人を不本意に傷つけ、死なせてしまった過去の事故。
守りたかったのに、守れなかった。
自分だけが傷一つなく、生き残ってしまった。
『オヴィス村の悲劇』を経て、アルエットも同じ思いを抱いた。その罪悪感の苦しさも、悔しさも、どうにもならない絶望や諦めも全て身をもって知っている。けれどそれでも、シーニュを殺すなんてできない。したくない。
「……この氷漬けの景色を見れば、魔力の暴走が起きたと誰もが考えるだろう。俺には過去に事故を起こした前科もある。これは暴走を止めるため……そして君は、暴走を止めて皆を救った英雄になれる」
「そんな不名誉な英雄、こっちから願い下げだよ!」
「これは君にしかできないことなんだ。エルシー様だけじゃない、俺もそれで救われる。できるできないではない。与えられた役目を果たせ、アルエット」
アルエットは絶望した。殺人の罪を被らないようにとお膳立てまでして、殺されたがっていることに。こんな不名誉なことを、役目として求められていることに。
エルシーを加護の呪縛から救うために、互いを『絶対正義』を受け付けない仲間として、手を携えて立ち向かってきた。
そんなふうに思ってたの、私だけだったのかな……
口数が多いわけでもなければ、愛想もないけど、信頼していた。わからないことはなんでも教えてくれて、武術にも長けて、頼りにもしていた。けれど彼は、最初からこちらに押しつけるつもりしかなかったのかもしれない。協力しているのではなく、自身の全てをアルエットという後継者に詰め込んで消えるつもりだったのかもしれない。
「君は……最初から最期まで──俺の、唯一の希望だった……」
その声が、初めてシーニュと出会ったときの声と重なる。伯父のモーガンを救うために魔物と戦い、殺されかけた。シーニュが助けてくれなければ、きっとあのとき死んでいた。そんなアルエットを見て……彼は言ったのだ。
『危うく“希望”を失うところだった』
シーニュは最初から殺してもらうつもりで、このときを待っていたのだろう。自分はみんなのために犠牲になった方が良いと自分の悲劇に酔って、それで結局やることと言えば他人に「殺してくれ」と縋りついて懇願するだけ。彼は自分が満足して死ぬことしか、眼中にない。
そう感じた瞬間──そのあまりにも独りよがりな言葉に、プツンと何かが切れた。
「何それ。じゃあ本当に最初から、私に殺してもらうためにロートヴィルまで来たの……?」
「あぁ」
迷いのない返答に、嘲笑が漏れる。最初は彼の苦しみや悲しみに共鳴していた心も感情も、全て薪として焚べられて燃えている。怒りの炎として、燃え盛っている。
「すごい……騎士団長にもなるような人が、こんなに大馬鹿だなんて思いもしなかった。君、勝手に私に夢見るのも大概にしなよ。人を殺したこともない、最近訓練始めたばっかの人間に、いきなり殺せって?」
「俺の殺し方は、サイラスとフィンチが教えたはずだ」
「はぁ? まさか……武器に無効化を付与できるようにしたのも、戦闘訓練そのものも、全部このためだったってこと!?」
「そうだ」
コイツ……自分を殺させるためにどこまで他人を利用する気なんだ……!
「酷い……! 私だけじゃなくて、サイラスやフィンチ先輩まで騙して! 私の努力は……私の努力はっ、シーニュを殺すためのものじゃないっ! それで私が殺したら、サイラスやフィンチ先輩まで君の死を背負うことになるんだよ……なんでそんな簡単なこともわからないの!?」
怒りは最早憎悪に近いほどに煮えくり返っていた。アルエットだけでなく、サイラスやフィンチの力まで、自分を殺させるために利用したのだ。
もしこのままサイラスやフィンチの教えを“活かして”シーニュを殺したとしたら、二人はきっとアルエットの訓練に付き合ったことを後悔するだろう。
傷つけたくない人を傷つけてしまう苦しみを、シーニュが誰よりも知っているはずなのに。それがわからない人ではないはずなのに。なぜそれを他人に強いるのか、アルエットには理解できなかった。
「殺せないはずがない。短剣に加護を付与し、頭を叩け。何度かやればそれで死ぬ」
「そういうことじゃない! ここで急所の話とか、頭イカれてんの!? 君はもう、心が先に死んじゃったんだ……!」
シーニュはもう、狂っている。普段は冷静に思慮深く判断を下すのに、この件に関しては本当にどうかしているとしか思えないほどに酷い。自分のことだけで限界で、他人の気持ちなんて気にする余裕すらもなくて、心が死に絶えている。
けれど彼の諦観と絶望が、アルエット自身の過去と重なって共鳴している。彼の持つ苦しみが少しだけ理解できてしまう。腹が立つのに、望み通り殺してやろうかと思うほど憎いのに……憎みきれなくて、掻き毟られるように苦しい。
「とにかく絶対にやらないから。無効化は私の力、シーニュの好きには使わせない。エルシーだってそう。私がいるから立ち直れるって? そんなの知るか! 誰かになんとかしてもらうことしか考えないなら、二人とも、もがき苦しんで死ねばいい!!」
『オヴィス村の悲劇』が起きて、一人ぼっちになった。周りの大人はアルエットを囮に利用して魔竜を討伐した。自分の生きる意味を失って、アルエットは絶望と諦観の中にいた。けれどそこに、誰かの救いを求めることはなかった。
だから私は、未来に夢を見ない。
今日という日を後悔なく、明るく楽しく生きる。
その生き方が何よりアルエットを守り、一日一日生かしてくれた。苦しみも後悔も過去に置いて、未来に過度の期待を持たない。それは誰かに縋ることなく、がむしゃらに一人で生き抜くための最善だったから。
なのに……世界で自分が一番不幸みたいな面して、相手の痛みも踏みにじりやがって……!
「許せない……許せない……! 散々私の足元見て、見縊りやがって。君のこの高そうな剣だって、こうしてやるっ!!」
アルエットは握らされた、見るからに高価そうな短剣を勢いよく地面に叩きつける。怒りのままに、短剣を思いきり足蹴にしてやった。短剣に罪はないが、シーニュの誇りと独善的な希望の塊を踏みにじってやらなければ気が済まなかった。
「ざまあみろ、シーニュ! 偉いからって、偉そうに! 世の中なんでも思い通りになると思うなよ!」
アルエットはありったけの軽蔑と嘲笑を込めて吐き捨てた。シーニュは何一つ感情の色を灯さない表情で、黙したままアルエットを見つめているだけだった。
「畜産農家の朝は早いから、私はもう寝る! おやすみ!」
何もかもを破り捨てるように言葉を投げつけ、これ以上付き合ってやる義理もないと踵を返した。
そしてそのまま来た道を、町の方へ向かって全速力で駆け抜ける。息が上がっても、足が縺れて転びかけても、速度は緩めなかった。一度でも止まってしまったら、もう歩き出すことさえできなくなりそうな気がしたから。
アルエットは自分の天幕に逃げるように戻り、素早く中へと入った。荒く乱れた自身の呼吸だけが、暗闇の中に静かに溶けていく。どっと安堵が押し寄せ、膝が震えて崩れ落ちる。呼吸はいつの間にか嗚咽へと変わり、とめどなくあふれる涙が頬を伝っては落ちていく。
殺したくなかった。
けれどシーニュは、いまだ苦しみの中にいるままだ。エルシーへの影響だって防ぐ方法が見つかっていない。結局殺してあげられるだけの意気地がないだけで、ただ問題を先送りしただけに過ぎないのかもしれない。
それでも、それでも──死んでほしくないと思うのは罪なのだろうか。
嗚咽を漏らしながら、アルエットはいつの間にか小さく声を上げて笑っていた。こんなときにまで笑いが漏れるのは、なぜなんだろう。
「私は……どうすれば良かったのかな……? 誰か、教えてよ……っ」
その問いかけに答えてくれたのは、夜の暗闇に下りた静寂だけだった。アルエットはそのまま毛布へと潜り込み、膝を抱えて固く目を閉じる。疲れだけは溜まっていたのか、あっという間に意識は深く暗く落ちていった。




