第21話 一滴の濁りは波紋を広げ
初日のセーレバラ近郊の浄化、一日目に指定された水源の浄化も滞りなく終わった。アルエット側の水源には異常は見られなかったが、サイラスとフィンチが向かった先の水源には魔物の死体があったらしい。
崩れた死体から発生した瘴気が水に溶け出して流れ出し、川が汚染され、穢れが下流の土壌にまで蓄積し、今回の事態が起きたのではないかと推測されている。とはいえ、魔物の死体一つではこうはならないため、明日調査予定の水源にも魔物の死体か、何か川を汚染するようなものがあるのではないかと言われていた。
「ぐぅぅぅ……魔物の死体水飲んでたのかぁ……つら……」
魔物の死体が溶けた水だったと知り、ゾワリとした忌避感がアルエットの腹の奥底からこみ上げる。町の井戸水で、煮沸して、浄化までかけてもらって、味にも違和感はなかったとはいえ、なんとも言えない嫌悪感に襲われていた。
「それを飲んで被害に遭った住民もおりますのよ? 浄化されてる分、アルエットは十分恵まれてますわ」
「自分たちは飲んでないからって、好き勝手言いやがるぅ……」
「何言ってんの。僕らも昨日からは“魔術生成水が使えないあんたに合わせて”飯は魔物死体浄化水だったろ?」
「うふふ、そうでしたわね。あたくしも聖騎士団で鍛えられたクチですから、アルエットの気持ちがわからないわけでもないんですのよ? あなたを見ていると懐かしくなりますわ」
あっけらかんとした様子のフィンチに、口元に手を当てて小さく笑っているロンディネ。特にロンディネは商家のお嬢様だと聞いていただけに、全く気にしていないのが意外すぎた。
「ゴミから漁って食う残飯よりはよっぽど衛生的だろ」
「当たり前ですわ。あたくしもさすがにゴミ箱の残飯は無理ですもの。ごく自然に残飯を例に出すなんて、もしかして残飯を召し上がったことがありまして?」
「うっさいな、ただの例えに決まってるだろ! 一々真に受ける方がどうかしてる」
「例えにしては、すごい実感こもってたことない……?」
「それより、あんた農家なんだろ? 搾りたてのミルクとか、新鮮なもんばっか食えるからこの程度でぎゃーぎゃー喚くんだろ」
フィンチの指摘は確かに的を射ている。肉も卵もミルクも、全て自分の家や近隣の家とのやりとりで賄えていた。遠くまで買いに行ったり、古くなった安いものを買う必要もなかった。ましてや残飯を漁らずとも食料にはそこまで困らなかった。気づいていなかっただけで、意外と良いものを食べられる生活だったのかもしれない。
「まぁ、みんなで飲めば怖くないってやつだね」
「幸い体調を崩した者は出ていない。水質に問題はないだろう」
「アルエット、大丈夫ですか? 任務が終わるまでは……その、魔物死体浄化水を飲用するしかないのですが……」
「はは……大丈夫。へーきへーき……贅沢は言わないよ……」
よくよく見れば、シーニュもサイラスも、繊細そうなエルシーですら気に留めている様子がない。むしろ気を使われてしまった。ロンディネの言う通り、教会に所属するとみんなこんな感じに鍛えられてしまうのだろうか。その精神の極まり方にアルエットは身震いした。
報告を兼ねた小休憩のあと、アルエットはエルシーとシーニュの二人と共に患者の治療に協力するために、教会近くの集会所へと向かった。比較的軽症な患者は自宅療養し、一日に一度集会所で浄化の治療を受けることになっている。
体から突き出た黒い棘のようなものは疼痛があり、その根元はジュクジュクと化膿して、血が滲む。瘴気中毒症の症状は浄化でしか治せず、治癒術で一時的に化膿や出血を止めても、すぐに元の状態に戻ってしまうのだという。
「染みるけど我慢してね……」
患者の右肩には一本黒い棘が生えており、膿と血で汚れたガーゼをピンセットで外すと、その根元が露わになる。肉と表皮を喰い破るように生えた棘は、見るからに痛々しい。アルエットは別のピンセットで消毒の染み込んだ綿を一つ摘み、黒い棘の根元を軽く押さえるようにして拭っていく。それが終わると、乾いた新しいガーゼに取り換えた。
隣で黙々と同じ作業をこなすシーニュは、アルエットより数段手際がいい。単純に慣れているのか、器用なだけなのか。以前サイラスがシーニュに対して、なんでも卒なくこなすと評価していた。その言葉は武器の扱いだけでなく、どんなことにも適用されるのかもしれない。ただ一つ、本人も認めていた魔術の制御を除いて。
「昨日よりも棘が小さくなっていますね。あなたもきっと、もうすぐ治りますよ」
「ありがとう……ありがとうございます……! エルシー様、このご恩は一生忘れません!」
「わたくしだけでなく、皆さんの協力とあなたが耐えてきたからこそですよ。あと少し、一緒に頑張りましょう」
「そうですよね……頑張ります! 僕も皆さんの役に立てるように、早く治しますっ!」
自然と口数が減ってしまう自分に比べて、エルシーは言葉を丁寧に尽くして対応していた。昼過ぎまでは水源の浄化に行っていたのに、彼女は疲れの色を一切見せることなく、荒野に咲く一輪の花のように微笑んでいた。
瘴気中毒症の浄化は、小さな力での浄化を時間を置いて何度も行うことで治療していく。一気に浄化を行って治してしまうと、激しい揺り戻しが起こり、全身が黒く蝕まれて亡くなってしまうのだという。瘴気がこれほどまでに厄介で恐ろしいものだということを、アルエットは初めて知った。
* * *
患者全員の治療と浄化が終わる頃、すでに日が落ちようとしていた。エルシーたちと共に集会所を出たアルエットは、最後の患者を見送ろうとしていた。
「おばあちゃん、私が家まで送ろっか?」
「すぐそこだから大丈夫よ、ありがとう。また明日もよろしくお願いしますね」
深いシワを刻んだ顔で柔らかく穏やかに微笑むと、老年の女性は小さく会釈した。足が少し悪そうで心配だったが、ゆっくりと自宅の方へと歩いていく。
「──あぁぁ、あァァァッ!!」
静かな夕景には不釣り合いな、耳を劈くような怒号に鼓膜が震える。弾かれたように声の方向を見たときにはすでに遅かった。狂人化の症状が出た男性が教会方面から急接近し、エルシーを守るために前へ出たシーニュへと殴りかかる。
『攻撃反射』の加護が発動したのか、男性は勢いよく弾かれて地面に転がった。彼を押さえようとシーニュが近づこうとしたとき、魔術を使う瞬間独特の空気が、ピリッと肌を刺した。
「しまっ──」
至近距離で発動した炎術がシーニュを襲う。火球はまるで鏡のように反射されたかと思うと、先ほど別れた老年の女性目掛けて飛んでいく。
アルエットは半ば条件反射のように足元の小石を掴み、『無効化』の加護を乗せて鋭く投げた。追い縋るように迫る火球を貫くように小石が当たり、虹色の霧となって弾ける。その光が夕日に照らされて煌めき、風にさらわれるようにして跡形もなく消えた。
──当たった……投げナイフの訓練、しといて良かった……
当たってから、ようやく危ない綱を渡っていた自覚が芽生える。もし外していたら今頃……そんな想像をした瞬間、どっと冷や汗が噴き出る。心臓は早鐘を打ち、今になって手が小さく震え始めていた。
男性はすでに他の騎士たちによって取り押さえられ、エルシーの浄化によって落ち着きを取り戻し始めている。それで全てが収束した……かのように見えた。
また微かにひりつくような気配と、季節に似つかわしくないヒヤリとした冷たさを頬に感じる。シーニュはいつもと変わらない表情で、じっと狂人化した男性とエルシーを見ていた。けれどその瞳は瞬き一つせず呆然としていて、呼吸が……止まっている。
周囲の空気が冬の早朝のように冷たく張り詰め、足元に生える雑草が霜が降りたように凍りつき始めていた。
魔力が暴走しかけてる……!?
アルエットは、とっさにシーニュの手を握りしめる。その瞬間、ひりつくような気配も冷気も、ふわりと消え去った。同時に、氷像のように固まっていた彼が息を吹き返し、浅く呼吸を繰り返す。
「大丈夫。シーニュ、大丈夫だから」
「アル、エット……」
「今は私がいる。君に依頼された役目は、必ず果たす。私はそのためにここにいるんだよ。何度だって防ぐから、安心して」
シーニュの掠れた声が名前を紡ぎ、ギシッと音がしそうなほどぎこちない動きで、視線がこちらを向く。浅い呼吸が緩やかに凪ぎ、握った彼の手の強張りがほどけていく。
無表情で、どんなときも冷静で、武術にも長ける彼の──脆い瞬間を……初めて見た。言葉ではなく、この目で。




