第19話 救いの神託【エルシー視点】
エルシーに初めて神託が下りたのは、聖女になって三年目、十五歳のときだった。この頃にはもう『絶対正義』の存在に気づき、大司教のコルモランにも相談していた。
「エルシー様は、聖女としての務めをしっかり果たしておられる。皆から慕われることは、何もおかしなことではない。そうして心配になられるのも、真摯にお役目に向き合われている証拠ですな」
コルモランは、エルシーの話を信じてはくれなかった。聖女になったばかりの頃から、父親のように親身になってくれていた人でも、『絶対正義』の強制力には敵わない。希望を絶たれ、思い詰め、心の殻に閉じこもった。
ずっと親しくしてくれていた友人であるメサンジュにも『絶対正義』のことや、心を歪める作用について伝え、半ば強引に距離を置いた時期だった。
聖女として選択を迫られる日々。人々の期待に応えなければという重圧と責任。何をしても肯定されてしまう環境は、エルシーに一切の失敗を許さなかった。
「大丈夫ですよ。その心を大切にすれば、きっと苦しみから解放されるはずです」
本当に?
わたくしの言葉を信じ続けて更に状況が悪化したら、どう責任を取ればいいの?
「ご自分を大切になさってください。あなたが身を捧げても、悲しみは大きくなってしまいます」
でも最悪の事態になったら、自分を犠牲にしてでも行動しなかったことを後悔するかもしれない。
こんな無責任なこと言って、取り返しのつかないことになってしまったら?
自分の判断ミスによる被害や犠牲を、盲目的に「それでも聖女様は正しかった」と言わせてはならない。抱くはずだった怒りや悲しみを『絶対正義』によってなかったことにしてはならない。
何をしても褒め讃えられてしまうのなら、その評価に値する存在になるべきだと思った。善い行いであれば称賛されたとしても、反応に大きな歪みは生じないのだから。
皆の心を歪めないためには、わたくしが変わるしかない。
『絶対正義』によって生まれる違和感と歪みの落差を、自分の行動を変えることですり合わせようとした。そうしてエルシーは、自身が思い描く『理想の聖女』を演じるようになった。『理想の聖女』なら、熱狂的な信仰心を向けられることも、歪みにはならない。そう、信じて。
聖女としての自分のあり方を確立しながらも、孤独に思い悩み続けていた時期。一人、ベッドの中で物思いに耽っていたときだった。ツンと頭の中が引っ張られるような奇妙な感覚がし、カチンと耳の奥で何かが繋がったような音がした。
『星の巡りは告げる。永き太陽の陰りは、東の地に。地中は寒き春を耐え、希望はやがて芽吹くだろう』
それがエルシーに下りた、一番最初の神託だった。男性とも女性ともつかない不思議なその声をただの幻聴と思った。しかしその声は日に何度も頭に響くようになり、とうとう公務の場でも聞こえた。いよいよ頭がおかしくなったのかもしれない、そう思ったときだった。
「エルシー様……瞳が空色になっておられます……!」
自分の瞳がどうなっているのか見ることはできなかったが、場が騒然としていた。聞こえた声の内容を伝えると、『始祖エーテルからの神託だ』と、神官たちは平伏してありがたがった。
神託の内容を神官たちは解読し、星詠みの結果と照らし合わせることで、東の国ネブラクシア王国で雨天が続き、寒い春が続くと解釈した。そしてその年、ネブラクシア王国では本当に雨天が続き、寒い春になった。けれど雨と冷害に備えて、寒さと湿気に強い作物を作付けしておいたことで、飢餓に見舞われずに済んだ。
神託は一度きりでは終わらず、それ以来たまに下りるようになった。歴代で初めて始祖エーテルの声を聞いた稀代の聖女として、エルシーはさらに人々の信仰を集めるようになっていった。
始祖エーテルは……わたくしを見放さなかった。
ずっと一人向き合ってきたわたくしを見守り、救ってくださったんですね。
神託は、聖女の重圧に潰れかけていたエルシーの心を救った。神託が下りれば、エルシーは選択をせずに済むからだ。神託の内容を大司教を中心に神官や聖騎士たちで話し合い、解釈し、答えを見つけ出してくれる。
自らの選択で導くより、神の声を伝えて導く方がずっと安心できた。間違えずに済む、期待を裏切らずに済む、そして──人々を騙さずに済む、と。
そうして危機を乗り越え、人々を救うたび、エルシーは自身の『聖女としての存在価値』を実感できた。ようやく初めて、皆の役に立てたと思えた。
あの神託が下るまでは──
* * *
──今回は、“滅びの神託”じゃなくて……よかった。
「たった今、始祖エーテルより神託を賜りました」
神託の瞬間だけは始祖エーテルと同化し、神をこの身に降ろしているような気分になる。普段であれば向けられるたびに心を削られるような信仰の眼差しも、恭しく頭を垂れる姿も、エルシー自身ではなく始祖エーテルへ向けられたものだと思えば、自然と受け入れられた。
エルシーだけが受け取ることのできる神の声を、皆が待ち望んでいる。熱を帯びた、救いを求める無数の眼差しに応え、口を開く。
『西の地の乱れは、湧き出ずる水面の底に沈む。穢れの欠片、折り重なりて蝕む。人の地よりせせらぎを辿りて、光をもって浄化せよ』
この神託が何を意味するのか、まだエルシーにはわからない。けれどこれまでの経験上、世界のどこかですでに起きている悲劇を終わらせるためのもので間違いないだろう。
「エルシー様……! 神の声を届けてくださりありがとうございます!」
「あぁ……エルシー様と……エルシー様をこの世に使わしてくださった神に感謝いたします!」
「またエルシー様が、苦しみの中にある民をお救いくださるのですね……」
神官たちは神託をその身に染み込ませるように噛みしめ、救いの手を差し伸べる神──始祖エーテルに感謝の祈りを捧げた。そしてにわかに動き始め、神託をどう解釈すべきかを会議するために慌ただしく散っていった。
僅かに西に傾いた太陽の金が、青い空にゆっくりと溶けていく。影は緩やかに、濃く長く伸び始めていた。
「エルシー様」
アルエットたちと執務室に戻ろうとしたところで、メサンジュが声をかけてくる。柔らかな水色の瞳がエルシーの様子を窺うように揺れた。
「お体に差し障りはありませんか?」
「えぇ、大丈夫です。いつもわたくしを心配してくれてありがとうございます」
「とんでもございません。私は君の友人なのですから、当然です」
メサンジュはホッと肩から力を抜き、安堵の表情を見せる。聖女になって教会に来たばかりの頃、大司教のコルモランが友人にと紹介してくれたのが、彼の息子でもあるメサンジュであった。
神託が下るとき、立ち眩みのような症状が出るせいか、どうしてもふらつくことがある。そんなエルシーの様子を心配し、メサンジュは神託のたびにこうして声をかけてくれていた。
かつてエルシーは一人で追い詰められ、一度はメサンジュを突き放してしまった。けれど彼は怒ることもなく、エルシーの願いを聞き入れて、いつも身を案じてくれる。エルシーに兄はいないが、兄がいればきっとこんな感じだったのかもしれない……そんなふうに思わせてくれる人だ。
突き放されたときのメサンジュの本当の思いをエルシーは知らない。本当に怒っていないのか、単に『絶対正義』の影響で歪み、怒りそのものがなかったことになってしまっただけなのか。それでも出会ったときから変わらない、極端に神格化したりしない態度は、エルシーにとってありがたいものだった。
「教会や神官に対して何かありましたら、いつでもご相談ください」
「そのときは頼りにさせてもらいますね」
メサンジュは穏やかな笑顔で会釈し、教会の方へと急いで戻っていった。彼も神託の会議に参加しなければならない立場だが、僅かな時間を割いて様子を見に来てくれたようだった。
「エルシーとメサンジュって仲良いんだ?」
「はい、そうですよ」
メサンジュとあまり関わったことがないアルエットは、彼の背中を見送りながら首を傾げた。普段から護衛として傍に仕えている近衛騎士と比べると、神官と関わる時間は短い。こうして親しく話す相手が神官の中にいることを意外に感じたのだろう。
「わたくしが聖女になったばかりの頃から、友人として頼りにさせてもらっていて……サイラスとは別の、もう一人の幼馴染と言える人ですね。彼は『絶対正義』については半信半疑でしたが、『攻撃反射』を持つシーニュなら、力に干渉されず接することができるのではと考えて聖騎士団へ勧誘してくれたんです」
「え、そうなの!?」
アルエットは驚きと興味に目を丸くし、首を痛めそうなほどの勢いでシーニュを見た。彼女の感情に等身大な仕草は、いつ見ても健気で面白くて、ふっと心がほぐれる。
「正式にはコルモラン大司教からだが、俺の加護の存在を知って推挙したのは彼だと聞いている。俺を迎えに来たのも彼だった」
「へぇ〜。ってことは、神官にもエルシーのことを支えたいって思って動いてる人がいるんだね」
「そうですね。本当にありがたいことです」
「ちょっとずつ、そういう人が増えたらいいよね」
屈託なく飾り気のないアルエットの笑みが眩しい。それは水面を照り返す陽光のように煌めいていて、確かに手の届く場所にある。けれど同時に、触れれば指の隙間をすり抜けていくような、そんな切なさが、なぜかエルシーの胸の奥に残った。
ずっと孤独の中で、シーニュやメサンジュという細い希望の糸を握りしめて耐えてきた。アルエットという友人が増えて、微かに光が差した。
彼女の言うように、『絶対正義』を知りながらも向き合ってくれる人が増えれば、状況は望んだ方向へと変わっていくのかもしれない。そんな希望を、エルシーは抱き始めていた。




