第17話 罪と過ちの氷像【シーニュ視点】
結局、人という生き物は、無い物ねだりでしかないのかもしれない。
「むしろ君の、『無効化』の力が……羨ましい」
シーニュはアルエット以上に、無神経なことを口にした自覚があった。アルエットはシーニュの力にまつわる過去を、詳しくは知らない。けれどシーニュは、アルエットのことを“ずっと前から”知っていた。
アルエット・カルミア・スティーリア。
その名を知ったのは十年ほど前だ。『オヴィス村の悲劇』の後、グラキエスの北壁における防衛戦で囮として立たされた少女。父は痛みを耐えるように目を伏せながら、自分は領主となるべき器ではなかったと呟き、シーニュにこう言った。
『アルエット・カルミア・スティーリア……その名を忘れるな。彼女がいなければ、一か八かで雪原に立たされたのは──お前だ、シーニュ』
なぜ彼女が囮に選ばれたのか。その理由が『無効化』の加護だったと知ったのは、何年も経った後のことだった。
『無効化』がアルエットの心に、どんな形の傷痕を残したのか。シーニュはそのほとんどを知っていながら、それでも誰も傷つけることのないその力を……「羨ましい」と言ってしまったのだ。
「クッキーがなくなるまででいい。少し、昔話に付き合ってくれないか?」
小さな決意と、ほんの少しだけ勇気を出して尋ねる。嫌と言われるなら、そこでやめるつもりだった。アルエットはきょとんと目を丸くしたあと、視線をシーニュとクッキーの間を何度も往復させた。
「話聞くのは別にいいけど、ちょっと冷静になろ? こんだけ山盛りなんだよ? 絶対なくならないでしょ」
山盛りのクッキーが入ったバスケットを指差し、「あはは」と大きな口で笑うアルエットは、いつの日にか見た菜の花畑を思い出す。飾らない野花のような笑みは、いつも閉じ込めた感情の殻を優しく叩いてくるような心地にさせる。
「君なら、ペロリといけると思った」
「ふーん……そんなこと言うなら、本当に根こそぎ食べちゃうからね」
少し拗ねたように目を細めたアルエットが、クッキーを一枚手にしたのを見て、シーニュは口を開こうとした。
喉に空気がつかえるような感覚を、一度飲み込む。頬をもぐもぐとさせながら、アルエットはじっとまっすぐに見つめてくる。紫陽花色の淡い青の瞳に、少しだけ心がほどけた。
そうしてようやく話し始める。今思い出しても心が押し潰されそうになる、あの日のことを。
* * *
あれはシーニュが十六歳の夏のことだった。当時のシーニュはまだエーテル教会聖騎士団ではなく、祖国のシュネーノルディア王国騎士団に所属していた。
『お前の加護は、お前を守るだろう。だがその矛先が誰に向くかはわからない。だから強くなれ。加護ではなくお前自身の力で、全ての攻撃を躱せるほどに』
幼い頃から父に何度も聞かされてきた言葉を胸に、努力を怠らなかった。文武両面に秀でた才能を持っていたシーニュは士官学校で異例の飛び級を果たし、十四歳で叙任され、十六歳になる頃には隊を率いるまでになっていた。
『攻撃反射』は、これ以上ないほどに戦闘に向いた加護であり、その性質を仲間たちはこう評した。
『負けたことがないんじゃない、負けることがないんだ』
『挑む前から勝敗が決している』
シーニュはいつの間にか、『不敗の騎士』と呼ばれ、有名になっていた。けれど、加護の力に甘んじたつもりは、ただの一度もなかった。あの日までは。
薄曇りの空の下、短い夏の青い匂いを乗せた風が吹いていた。あの日、シュネーノルディア東部の平原で大規模な魔物の掃討作戦が決行された。シーニュが率いる第三十一小隊は、北西にある小さな森から魔物を平原へと誘き寄せる役目を担っていた。
「シーニュ隊長、作戦決行の合図です」
「わかった。第三十一小隊、出撃!」
シーニュの号令に合わせて、騎士たちは武器を構え、森の中へと踏み込む。作戦通りに森の中の魔物を各々魔術で炙り出し、討伐して数を減らしながら平原方面へと追い込んでいく。
作戦は、最初こそ概ね順調に進んでいた。だが、上層部が見積もっていたよりも遥かに上回る魔物の数に手こずり、徐々に作戦が予定よりも遅れていった。
長引く戦闘は隊の騎士たちを疲弊させ、体には傷が増えていく。隊服に滲む血、荒い息遣い、額から伝う汗──心身を削られ、壊滅するのも時間の問題だ。そんな焦りがシーニュの中に生まれていた。
退却を命じるのであれば、体力を消耗しきる前……全員が動けるうちでなければならない。しかし、退却すれば作戦は失敗する。魔物の勢力はいまだ衰えず、判断を誤れば一瞬で呑まれるだろう。
──いや、数を見誤った時点で……作戦は失敗していた。
シーニュは魔術を使うため、魔力を練る。あり余るほどの膨大な魔力量とは裏腹に、いやむしろあり余っているからこそ制御が難しく、魔術は得意ではなかった。それでも、退路を開いて全員で生還するにはこれしかない。
少しでも気を抜けば周囲を巻き込みかねない不安定な感覚。まるで鎖から解き放たれた猛獣のように体内を暴れ回る魔力を押し殺しながら、シーニュは一度に扱える全力の魔力を注ぐ。そして、元来た方向へと放った。
凄まじい風の刃が一つ、甲高い悲鳴のような音を立てて一直線に森の中を駆け抜けていく。枝葉を舞い上げ、木々を裂き、その衝撃が地面を何度も揺らす。その風の余波は魔物も味方も身動きが取れないほど強烈で、シーニュだけが一人そこに立っていた。やがて術が収束すると、魔術を放った方向にまっすぐに伸びる一本の道ができた。
「作戦は失敗した。総員、退却する! まっすぐ走って森を抜けろ! 絶対に振り返るな!」
副隊長に先頭を任せ、シーニュは殿を務める。彼らの背後から迫る魔物を取り逃さないよう風術と氷術で対応しつつ後ろ歩きをし、立ち止まりながら撤退する。何度も、背後を走っていく騎士を目で追いながら。
隊の騎士は副隊長に続き、道の脇から襲いかかる魔物と戦闘を繰り返しながら進む。その場に留まりながら後方の対応に専念するシーニュと、先頭の副隊長の距離はなかなか開かない。まっすぐに行けばいいはずの道を、思うように進めていない。
「直ちに戦闘を中止し、撤退に専念しろ。魔物は俺が全て片付ける。走れ……足がちぎれてでも走れっ!!」
「けどそれじゃ、シーニュ隊長が……!」
「俺は負けたことがないんじゃない、負けないんだろ!? いいから、さっさと行け!!」
シーニュは後方の魔物と戦うことを放棄する決断をした。けれど魔物は一番身近にいるシーニュへの攻撃をやめず、攻撃を反射されて自滅していく。その分空いた手を、走り去る仲間たちの側方や後方から追い縋る魔物へと割くことにした。
今にして思えば、『攻撃反射』に頼りきった判断をしたことが、大きな間違いだった。
『攻撃反射』は攻撃を相手に返すものではない。鏡のように反射し、入射角によっては攻撃を仕掛けてきた対象とは全く違う方向へと跳ね返る。そして、最悪の事態が起きた。
無視していた魔物の放った雷撃が『攻撃反射』によって跳ね返り、仲間の騎士の……無防備なその背中に──直撃した。
『お前の加護は、お前を守るだろう。だがその矛先が誰に向くかはわからない。だから強くなれ。加護ではなくお前自身の力で、全ての攻撃を躱せるほどに』
──どうして今、父上の言葉を思い出すんだ。
皆が逃げるのに必死で、倒れた騎士には気づかない。地に伏した騎士を格好の獲物と定めた魔物共が、トドメを刺そうと襲いかかる。
「ふざけんな……退け……!!」
このときにはもう、ほとんど魔力が制御できていなかった。倒れたままの騎士に襲いかかる魔物を大げさすぎる氷晶で八つ裂きにし、シーニュは駆け寄る。
「おい、立て! 立つんだ!」
「シー……隊、長。俺は……も、置いて……くだ……」
「できるわけないだろ! こうなったのは俺の責任だ……歩けないなら、俺が連れ帰る!」
「……俺の、運が……悪かっ、だけで……あなたは……俺……助け……し……」
唇が開いたままに言葉は途切れ、瞳から光が……流れ星のように零れ落ちて失われていく。まるで時から切り取られたように──彼は動きを止めた。
そこからの記憶は、少なくともシーニュには残っていない。気づいたとき、森の大半がなくなっていた。魔物もいなくなっていた。一面氷漬けになった中心にシーニュはいて、亡くなった騎士が腕の中にいた。その氷漬けの場所から外れた場所で、他の隊員たちは呆然と立ち尽くしていた。
第三十一小隊。総員十六名。
内、死者一名、重傷者三名、軽傷者十一名。
無傷で生還したのはただ一人……シーニュだけであった。
『自分だけは加護で生き残れるからと、隊員たちに無理を強いたのではないか?』
『シーニュ隊長でなければ、オレたちは全滅していた……!』
『あたしの息子はっ、あんたに、あんたに殺されたんだっ!』
『シーニュ隊長、僕は……騎士を辞めて、田舎に帰ろうと思います。けど隊長には本当に、心から感謝してます。ありがとうございました』
第三十一小隊の中にシーニュを責める者は一人も、亡くなった彼も含めて誰もいなかった。そして隊の仲間以外は、彼の親族を始め、騎士団上層部までもがシーニュの判断に問題があったはずだと責め立てた。
庇われれば庇われるほど、責められれば責められるほど、想定外に対応しきれなかった自身の未熟さが彼を殺したのだと思い知らされた。
『どうせ死なないのであれば、これからは彼一人で戦場に投入すれば良い。これで他の者が巻き込まれることもなく、全ての問題は解決する』
それはとても合理的で、残酷な判断だった。頭では理解できるのに、心が理解を拒否した。
俺には、兵器としての価値しかないのか。
人として、また皆と関わることは難しいのだろうか。
そしてシーニュは、追われるようにシュネーノルディア王国騎士団を去った。魔物の数が想定よりも遥かに上回っていたという事実は、静かに闇に葬られ、真の責任の所在が明らかになることもなくうやむやのまま幕を閉じた。
それ以降、感情に呼応して魔力が暴走しないよう、感情そのものを律するようになった。故郷の街ロゼルブルムへと戻り、領主である父の補佐をして暮らしていた。そこへ事情を聞いたエーテル教会から使者がやって来た。
『あなたの力を求めておられるのです。どうかエルシー様をお守りいただけないでしょうか』
まだこの力が『誰かの心』を支えるために使えるなら。その思いでエーテル教会聖騎士団に所属することを決めた。けれどそれすらも……間違いだったのだ。
* * *
話し終えると、アルエットは真剣に聞いてくれていたのか、眉間に深くシワを刻んでいた。クッキーを食べる手も途中で止まってしまったのか、その山は話し始める前とほとんど変わっていない。
「最初の頃は良かった。『絶対正義』に影響されないこの力をエルシー様も喜んでくれていた。だが、今は……」
『攻撃反射』は『絶対正義』を跳ね返し、エルシーに悪影響を与えてしまっている。エルシーがシーニュを騎士団長の座へと押し上げたのも、今にして思えば『絶対正義』に蝕まれた影響だったのだろう。
『絶対正義』を宿す彼女の声は、鶴の一声だ。若く、入団年数の浅いシーニュが騎士団長になることへ、誰も異議を唱えなかった。今でも任命されたときの、奇妙な感覚を鮮明に覚えている。
「エルシーに『絶対正義』が反射してる、だよね。シーニュが私に加護と魔力の無効化を頼んだ理由も……わかった」
いつも明るいアルエットにしては珍しく、俯きながらため息をついた。けれどそれも僅かな間だけで、両手で頬を叩くと、クッキーを一枚頬張った。
「任せて、とは言えないけど……やれることはやる」
彼女はもう、気持ちを立て直している。他人の後ろ暗い事情に否応なく巻き込まれているだけだというのに、まるで自分事のように話しながら。
決して大きな見栄を張らず、誠実な言葉と態度で応えようとしてくれる。明るくて勢い任せなように見えて、思慮深い。そして心の強い人だということに、シーニュは尊敬の念を抱いていた。
「でさ。なんで急に昔のこと話してくれたの?」
「俺は『オヴィス村の悲劇』も『グラキエス防衛戦』もよく知っている。俺ばかり一方的に君を知っているのは、対等とは言えないだろう?」
「何それ。シーニュって変なとこで律儀だよねー」
アルエットはおかしそうに眉根を寄せ、肩を揺らして笑った。まだ長い時を共にしているわけではないが、彼女が暗く重い感情の底に沈むのを見たことがない。いや、もしかしたら沈まないのかもしれない。
笑顔が絶えなくて、賑やかで、アルエットがいるとその場が緩み、温かな雰囲気になる。エルシーはもちろん、サイラスやサイラス隊の騎士たちともあっという間に打ち解けてしまった。ロンディネや、気難しいフィンチですら好意的に接している。彼女の私室に飾られた見舞いの花の数を見たときは、内心かなり驚いたものだった。
「君の加護は、誰も傷つけない。それは何にも代え難い、素晴らしいことだ。それは忘れないでほしい」
全ての加護と魔力を打ち消す『無効化』の力。それは小さくて……けれど確かな、一筋の希望の光だ。どうかその力が、この終わりなき歪みの輪廻に救いをもたらすことを。シーニュはその終わりを、心密かに願い続けている──




