第12話 世界から隔絶された孤独の波間に
アルエットは頬張っていたクッキーを急ぎ飲み下す。一息ついて落ち着いたのを確認したシーニュが、口を開いた。
「まず最初に、アルエットに聞いておきたいことがある。今日一日公務に同行して感じたことを詳しく聞かせてほしい」
シーニュの質問に、アルエットは素直に答えた。あの場にいた民衆全員が熱狂していたのは、さすがに異様に見えたこと。エルシーの行動は拡大化され、単なる思い込みが人々の中で真実へと変化してしまうと感じたこと。ロンディネの様子から、その異様さや違和感に自力で気づくのは難しいということ。
そしてそれが悪意などではなく、敬意と善意であること。シーニュにとってはすでに知っていることばかりかもしれないが、考えたことや気づいたこと全てを共有した。
「そうか……一つ、君に確認したい。エルシー様に、何かおかしいと思う部分はなかったか?」
「エルシーに? えー……あるかなぁ……」
今日の出来事を振り返ると、『絶対正義』の影響の強烈さばかりが蘇ってくる。エルシーは自分の言葉や思いが伝わらないことに苦しみ、暗い表情をしていた。近衛騎士隊長であるロンディネにすら理解されず、意見がぶつかりあった。そうして……そうして──
『シーニュ……! ありがとう……やっぱりあなたは、いつもわたくしたちを正しい方へと導いてくれますね』
「あっ、あったかも」
「教えてもらってもいいか?」
「うん。エルシーとロンディネが言い合いみたいになったとき、シーニュが介入したでしょ? あのときのエルシー、シーニュのことすごく褒めてたよね」
エルシーはシーニュの対応を、感激したように褒めた。そしてそのときに、アルエットは微かな違和感を抱いた。あのときは言葉にしきれなかった感覚、情報を整理しながら辿った今なら……わかる。
「目。エルシーに熱狂してる人たちと……目が似てた……気がする」
ふくらんで破裂しそうなほどの尊敬と感謝。相手を正しいと信じ、まるで心酔したような異様な熱っぽさ。爛々と輝き、縋りつくような粘度のある眼差し……それが、どうしようもなく似ていると思ってしまった。
「君はやはり良い勘を持っているな。冴えた観察眼は、期待以上だ。俺も……これでようやく確信を持てた」
シーニュは目を一度伏せ、開く。深刻で、どこか切羽詰まった余裕のない瞳が、アルエットを映す。
「俺の加護の『攻撃反射』は、エルシー様へ『絶対正義』を跳ね返している。エルシー様は、恐らく……」
「反射された『絶対正義』に影響されて、シーニュのことを“絶対に正しい”って歪めて見てる……って、こと?」
そう言われれば、あの異様に熱っぽく浮かされた言動に説明はつく。シーニュの加護である『攻撃反射』の性質を考えれば、単に影響を受けなくて済むだけでなく、力がどこかへ跳ね返されているはずなのだ。
目に見えず、精神に作用する力の方向は視認することができない。だからこそシーニュはこれまで確信しきることができなかったし、エルシー自身も気づけない。
「そうだ。このことは他言無用で頼みたい。特にエルシー様には、絶対にだ。もし知られたら、彼女の心は崩壊する」
「崩壊って……」
「その可能性に気づいて、聖騎士を辞めようとしたことがある。だが、大司教に止められた。エルシー様の信頼も厚く、俺がいなくなれば精神的に不安定になって塞ぎ込むかもしれない、と。ただでさえ、エルシー様は俺を力に影響されない唯一の人だと信頼してくれていた。そこに力の影響まで加わっている。傍目から見てもそう感じるほど、彼女は俺に依存しているということだ」
あれだけ『絶対正義』に苦しめられていて、それを何とかしたいと必死にエルシーは努力している。なのに、その力に自分自身の心までもが蝕まれている。
「あんなにシーニュを信頼してるのに、力の歪みが混ざってるなんて知ったら……」
依存しているシーニュという支柱を失うことも、そこに隠された真実も、エルシーの心を殺しきれるだけの高い殺傷力がある。シーニュが死ぬまで他言するなと言った理由も、決して大げさなものではなかった。
「アルエットには、このままエルシー様と親しくなってもらいたい。頃合いを見て俺は、接触を減らそうと思う」
「……わかった。けど……」
エルシーがどれだけ危ういところに立っているのかは、よくわかった。けれど、シーニュのことがほとんど見えてこない。傷心すらなく、動じず、変わらずに凪いだままの表情が妙に気にかかった。
「シーニュは、大丈夫なの?」
「ほとんど確信に近い状態だった。すでに理解して飲み込んでいる」
「そうじゃなくてさ。上手く言えないんだけど……シーニュを慕ってるのはエルシーだけじゃないと思うんだよね。みんな頼りにしてるの、見てればわかるよ。ちゃんと、ここが君の居場所だって私は思うし……解決法を探せばいいだけなんだから……」
「辞めようとしたことを心配しているのか?」
確かに、そうなのかもしれない。何も悪いことをしたわけでもないのに、加護の相性が悪いだけで聖騎士団を去らなければならない。若くして騎士団長になるほどに才能のある人が、こんな形で居場所を失うのは釈然としなかった。
「俺のことは気にしなくていい。ただ、君には迷惑をかけることになるかもしれないが」
「いいよ。呼ばれたときから、やれることはやるって決めてる。このままエルシーやシーニュのこと、見なかったことになんてできないし」
「……頼もしい言葉が聞けてよかった。改めて、よろしく頼む。アルエット」
「うん。こちらこそ」
アルエットとシーニュは、互いの意思の固さを確認し、頷き合った。全ては『絶対正義』による歪みを取り払い、エルシーを孤独から解放するため。依存にも似た熱狂ではなく、正常に心の拠り所となるような穏やかな感情に包まれた世界にするため。世界でたった二人、一つの秘密を共有して立ち向かう戦友となった。
* * *
あの夜から、また一週間が経った。その間に、週末礼拝と定期教導に同行した。礼拝は中央教会での祈祷と説法を、定期教導は見習いの神官や聖騎士に向けての説法や訓戒などをエルシーの言葉で伝える定期公務の一つだ。
エルシーはとりわけこの週末礼拝と定期教導を苦手としているようだった。『絶対正義』の力は言葉に乗りやすいのだと、以前夜のお茶会で話してくれていた。
ゆっくりと慎重に言葉を選び……黙し……重ねれば重ねるほどに聴衆は熱を帯びていく。爛々とした瞳で、ただ一人──エルシーだけを見つめる。その変化が恐ろしくて目を逸らしたくなると、エルシーは小さく震えていた。
週末礼拝が終わったあと、シーニュと三人でいたときの記憶が蘇る。笑顔で、でも顔色は悪くて、まるで逃げるようにエルシーは執務室へと帰った。
「またわたくしは、罪のない人々を騙してしまったのですね……」
部屋に入り、三人だけになった瞬間、エルシーはぽつりと弱音を吐いた。言葉を重ねるごとに他人の感情や心を歪め、罪悪感は積み重なる。華奢な背中に背負うにはあまりにも重すぎる現実と責任。窓際で外を見つめる背中は心許なく、泣いているようにも見えた。
「シーニュ、わたくしは正しいのでしょうか。このようなことを続けていて、間違ってはいないのでしょうか」
「……エルシー様は、皆を騙したわけではない。あなたの言葉に偽りはない。心に響く言葉をかけられて感情が動くことも、ごく当たり前のことだ」
シーニュの言葉に、エルシーは振り返る。彼女の黄金色の瞳が、爛々と異様な熱を宿して閃いたように見えた。
「あぁ、よかった……! あなたがそう言ってくれると、わたくしは安心できるのです。いつもわたくしを正しく導いてくれてありがとう、シーニュ」
「……いや、当然の務めだ」
シーニュの夕闇色の瞳が、暗く傾いたような気がした。無感情なように見えて、この人は無感情ではない。一度は聖騎士を辞めようとしたほど責任感があり、思い詰めたことがある。落ち着いているからと安心はできない。
エルシーの安堵したような笑みは痛々しく、こうして二人で何年も……この状況をごまかしながら耐え忍んできたのだと理解できてしまう。やるせなくて、退廃的で、緩やかに破滅へと落ちていくような仄暗い雰囲気がそこには漂っていた。
『攻撃反射』によって跳ね返された『絶対正義』に沈むエルシーと、その責任に沈むシーニュ。それはまるで一つの木材に二人で掴まり、暗く果てのない湖で漂流しているような状態に似ている。
互いに励まし合いながらも、水の冷たさに緩やかに体温を奪われ、いつかは木材を掴む力すら失う。この二人を二人ぼっちにさせたらダメだと、アルエットは直感で感じていた。
「ボサッとしてる場合か、アルエット!」
「ぐぅぉ──っ!?」
振るわれた訓練用の槍が、勢いよく脇腹にめり込む。花も恥じらう乙女から発せられるとは思えない珍妙な声が漏れ、アルエットは思わず痛みに蹲った。
「サイラスぅ……容赦、なさすぎ……」
「俺を相手に考え事とは、ずいぶんと出世したものだね」
エルシーの仕事は内務が最も多い。教会や聖騎士団からの報告書の閲覧や裁可、教会上層部や各国要人たちとの儀式や式典行事などの打ち合わせなどが主だ。そういうときアルエットは、こうしてサイラスの隊に混ざって訓練に励んでいる。
「ごめん。私みたいな雑魚に構ってくれてるのに、集中切らして」
「……ま、そういうときもあるよね。少し休憩して、みんなの訓練を見学してるといいよ。見てることでしか学べないこともあるから」
そう言い残して、サイラスは隊員たちの方へと去っていく。アルエットは木陰に入り、おとなしく彼らの訓練を見学することにした。
サイラスが気を使って休ませてくれただけなのはわかっている。騎士たちの動きを見れば、自分がまだまだ足元にも及ばないことは一目瞭然だ。
こんなところで一人のんびり休んでいるわけにもいかない。エルシーとシーニュの件も、できるだけ早くなんとかしなければならない。頭ではわかっているのに、なぜか心が上手く動いてくれない。油の切れた道具のように、嫌な音を立てて軋むようなぎこちなさがあった。
「こんなところで眺めているだけとは、君は指導教官にでもなったのか? 短期でずいぶんと出世したようだな」
背後から、淡々とした低い声が降る。さすがにもう誰の声かは覚えた。シーニュだ。
「同じようなこと、さっきサイラスに言われたばっかりだよ」
「ほぅ。ということはつまり、本当に出世したということか」
「真顔でよくそんな冗談言えるよねー。はぁ、まぁいいや……」
シーニュに声をかけられて、少しだけ気が抜けた。本当につらくて苦しんでいるのは、アルエットではなく彼だ。本人が立ち止まらず動いているのに、自分が立ち止まっているわけにはいかない。
「訓練に混ざるのか?」
「ううん、私は一人で基礎訓練やる。ボーッと座ってるよりは実になるでしょ」
「そうか。残念だが、君たちの訓練はここで終わりだ。話したいことがある」
「……え?」
そのままサイラスたちの方へ歩いていくシーニュを、アルエットは慌てて追いかけた。シーニュが声をかけると、サイラスたちが駆け寄ってくる。
「明後日から遠征に出る。任務内容は、魔物の討伐と土地の浄化だ。この任務はサイラスの隊に任せることになった。詳細は追って知らせる。皆は体調を万全にし、出立の準備を整えておくように。アルエット、君もだ」
「討伐と浄化か……アルエット、あなたにとってこれが、初めて戦闘を伴う公務になるだろうね。任務は大切だけど、自分の身の安全を最優先にするように」
サイラスの心配そうな眼差しに、アルエットは静かに息を呑む。まだ彼は、戦闘の伴う任務に出すには早いと考えているのだろう。
「わかった。自分の身くらい、自分で守れないと……だよね」
だとしても、やるしかない。『無効化』の力があれば、魔力や加護由来の攻撃から誰かを守れる。無力なりに、やれることはある。
そもそもどんな状態や感情だろうと、現実は待ってくれたりなんかしない。いつだって苦境は向こうから勝手にやって来る。アルエットは過去に、身をもって痛感した。
不意を突かれても揺らがない覚悟でいなければ。心を折られ、立つ力を失ってしまったその瞬間……そこが全ての終わりの地になってしまう。
今はただひたすらに、目の前のことをやるしかない。前に進み続けなければ、あとは沈むしかなくなってしまうのだから。




