5.
恐怖の目覚まし時計の効果は期待通り……、最悪だった。
買って初めてセットした翌朝、隼太は、生理的に嫌悪しているゴキブリの大群が足元から這い上がってくる夢を見た。顔にまで迫ったゴキブリの一匹が口のなかに入った瞬間、悲鳴を上げて飛び起きた。
起きてみれば、鳴っていた目覚まし音はごく小さい音で、ガサゴソと乾いた紙の上を何かが這いずるような音だった。
本当だった……。
この目覚まし時計は、寝ている人の脳波を感知する。そして、その瞬間に浮かんだ恐怖心に共鳴する音を合成して鳴らすのだ。
全身脂汗を掻いていたのですぐにシャワーを浴びた。二度寝する気分にもなれなかったが、あまりの恐怖で、出勤はいつも通りのギリギリになってしまった。
その翌日も恐怖だった。
上半身裸の武藤専務に後ろから抱きしめられ、首筋をぺろっと舐められた。ぬめっとした感触と汗の臭いだけでも充分に恐怖なのに、前方から、薄ら笑いを浮かべた及川先輩がカッターナイフを持って近付いてきた。その刃先が目に突き刺さる寸前で飛び起きた。
起きてみれば、目覚まし時計は、パンプスがたてる静かな足音と冷たい笑い声を発していた。どのタイミングで目覚めるかは自分次第、ということらしい。
この日も二度寝する気にはならなかったが、食事する気にもなれず早い時間に家を出た。
☆
「どうしたの伊勢君、早くない? 何が起きたの」
翌朝、会社のドアの前に佇む隼太に、半笑いで話しかけてきたのは及川先輩だ。
誰よりも早く出勤したのはいいが、会社のメインドアはIDカードをタッチしても開かなかった。施錠と解錠をするときはパスワードが必要なのだが、パスワードなんて覚えていない……、というかパスワードが必要なことすら忘れていた。
及川先輩は、慣れた手つきで四桁のパスワードを打ち込んでメインドアを開け、
「さすがに武藤専務の説教は堪えたかぁ」
と、なんだか楽しそうだ。
「いいえ!」
心を入れ替えたと思われることが恥ずかしい。それより “武藤専務” という単語を耳にしたせいで虫唾が走った。
トラウマになりそうだ。
「説教は関係ないっすけど、今日はカイザートラベルへに協業の提案に行くんで、事前にちょっと、確認しときたいことがあって」
本当のことだ。
「ほっほぉ、すごいじゃん、やっぱ心入れ替えたんだね。だからかぁ、ここんとこ台風が連なってくるの。ほどほどに頑張ってね、伊勢少年」
ポンと肩を叩かれた。
誰が少年じゃい!
実際、シリアスな夢で目覚めると一日のスタートに活が入った。そうすると不思議なもので、仕事は順調に進み始めた。
カイザートラベルとの協業の案件は、プレゼン相手に役員が同席していたにも係わらず物怖じすることなく自社の強みをアピールできたし、その結果、プロジェクトは先方の興味を惹き、今は業務提携の契約書の段階に進んでいる。成果が上がれは自分の成績にカウントされる。
ノビール学校法人相手の接待は「たまにはカジュアルなお店で」ともんじゃ焼き屋にした。粉もので腹いっぱいにする作戦は見事に当たり、予定の半額で接待することができた。
そのうえ思いのほか話が弾んで、接待相手のひとりが、同業者で研修旅行の幹事をしている友人を紹介してくれた。
領収書は、馴染みの店長に頼んで、活きアワビとイセエビの時価を加えて切ってもらい、差額はすべて目覚まし時計代に充てた。
仕事がうまく回り始めると、大切な商談を任されるようにもなった。だが、恐怖の目覚まし時計はここ一番でしか使わなかった。
慣れるのが怖い、というわけではない。
本当に怖いのだ。
連日だと三日が限界で、四日目をセットすると、怖くて寝付けない。
ある日のこと、在宅で報告書を作成し、午後から、直行で客先に営業に出ようとしていたときのことだ。柏田営業部長からTeams通話で連絡が入った。
〔伊勢君、今日は午後から予定は?〕
「オリエント通商に出張アプリの提案に行って、そのあと都内で研修旅行先の下見です」
すらすらと予定が言えるなんて昔なら考えられなかった。特に就業時間外に仕事を入れるなんて……。庸太が『最近付き合いが悪くなった』とぶぅたれるわけだ。
〔そうか、じゃ、今日の打ち合わせはもうムリだな。実はさ、明日の朝、羽田に行って欲しいんだ〕
「羽田?」
何だろう。
〔台湾からのお客さんなんだけど、オレも専務も行けなくなっちゃって、君しかいないんだわ〕
お迎えはいいが、アテンドだと言語の問題がある。
「台湾のお客さんって、日本語話せるんですか」
〔ああ、日常会話ぐらいなら問題ない。それより大事なお客さんなんで、くれぐれも粗相のないようにアテンドして欲しい〕
「あ、でも午後からはちょっと」
〔うん、午後は及川さんが引き受けてくれたから君は午前だけでいい。そういうわけでさ、明日の訪問先について説明しとこうと思ったんだけど……、打ち合わせムリだったらスケジュール表送っとくから、頼むわ。読んどいて〕
断れる案件ではなさそうだ。
「わかりました。じゃあ、ファイル貼り付けといてください。質問あったら夜中でも連絡しますんで、そのときはお願いします」
通話を切ったあと、部長に頼られるなんて、何だかできる営業マンになったみたいだな、と隼太はひとりで笑った。




