3-2. 姜維排斥運動と政治の私物化
「諸葛亮の威光」という実態のない神輿に乗って最高権力者の座に就いた諸葛瞻にとって、自らの政治基盤を強固にするための最大のアジェンダは何であったか。それは、魏の圧倒的な軍事力に対する国防戦略の再構築でもなければ、枯渇しつつある国家財政の立て直しでもない。
彼にとっての最大の政治課題は、最前線で魏と死闘を繰り広げている大将軍・姜維の排除であった。
自らの人気と権力の源泉が「戦争を嫌い、現状維持を望む益州派(および民衆)」にある以上、諸葛瞻は彼らの代弁者として振る舞うしかない。国是である「討賊」を掲げ、終わりの見えない防衛戦を最前線で指揮し続ける姜維の存在は、諸葛瞻が演出する「益州の平和」という箱庭の平穏を脅かす、最も目障りなノイズであった。
かくして、国家の防波堤として血を流している最高司令官に対し、安全な後方の首都(成都)から、軍事の素人たちによる陰湿で国賊的な「排斥運動」が開始されるのである。
晋代に編纂された『蜀記』(孫盛などが引用)には、諸葛瞻が同僚の董厥らと結託し、姜維に対して仕掛けた恐るべき政治工作が明確に記録されている。
「瞻、厥等以維好戰無功、國內疲弊、宜表後主、召還為益州刺史、奪其兵權」
(諸葛瞻や董厥らは、姜維が戦争を好むものの功績がなく、国内が疲弊しているとして、後主〈劉禅〉に上表し、彼を召還して益州刺史とし、その兵権を奪うべきだと考えた)
この一文が意味する恐ろしさを、現代の国家運営の視点から紐解いてみよう。
圧倒的な生産力と供給網を持つ敵国・魏に対し、姜維は国力差の限界を悟りながらも「攻勢防御」によって必死に前線の崩壊を防いでいた。その最高司令官から突如として軍権(兵権)を完全に剥奪し、あろうことか「益州刺史」という単なる地方行政官へと左遷しようと企てたのである。
これは単なる「軍縮」や「方針転換」といった生易しいものではない。国家の安全保障政策の完全な「私物化」である。 百歩譲って、もし諸葛瞻らに「姜維に代わる、より優れた軍略と大局観を持った後任の将軍」を推挙する腹案があったのなら、まだ政治闘争としての理屈は通る。しかし、彼らが姜維の後釜として軍のトップにすげ替えようと画策していたのは、閻宇という人物であった。
閻宇は、確かに一定の実務能力はあったかもしれないが、その最大の出世の理由は「当時、宮廷で権力を握りつつあった宦官・黄皓に巧みに取り入り、結託していたこと」に他ならない。
前線で魏の巨大な軍事機械(鄧艾や鍾会といった歴戦の猛将たち)とギリギリの神経戦を繰り広げている軍の全権を、宮廷内の「人気取り」と「宦官への忖度」のためだけに、後方で政治工作に長けただけの将軍に渡そうとする。諸葛瞻のこの行動は、国防のリアリズムを完全に無視した自殺行為であり、国家の安全保障を自身の権力闘争のチップとしてテーブルに投げ出す、極めて悪質な背任行為であった。
父・諸葛亮は、『出師の表』において「宮中(政府)と府中(軍部)は一体であり、法を異にしてはならない」と説き、国家の総力を挙げて魏に対抗するための強固な一元体制を構築した。しかし息子の諸葛瞻は、政府(成都)の権力を独占するために軍部(前線の姜維)を切り離し、激しい内部対立を引き起こしたのである。
大局的な防衛戦略を持たず、ただ自身の保身と内向きの派閥争いのために前線の将兵を裏切る。この時点で、諸葛瞻の率いる蜀漢の中央政府は「漢室復興」という誇り高きレゾンデートル(国家の存在理由)を完全に喪失し、単なる腐敗した地方政権へと成り下がっていた。
そして、この姜維排斥運動を完遂するために、諸葛瞻は政治家として絶対に踏み越えてはならない「最後の一線」へと足を踏み入れることになる。それこそが、父が最も忌み嫌った「小人(宦官)」との結託(あるいは黙認)であった。




