2-1. 費禕の「現実主義」という名の敗北主義
蔣琬が病に倒れた後、蜀漢の国政と軍事のトップに立ったのが費禕である。彼は諸葛亮から「大局を見渡せる人物」として蔣琬に次ぐ後継者に指名されており、事実、その事務処理能力や利害の調整力は極めて高かった。彼が実権を握っていた時代、蜀の国内は比較的平穏であったため、後世の歴史家からも「民力を休養させ、国を安定させた良相」として肯定的に評価されることが多い。
しかし、国家のレゾンデートル(存在理由)とマクロな地政学的・経済的戦略の視点から彼の治世を解剖すれば、全く別の残酷な景色が浮かび上がってくる。費禕が実権を握ったこの期間こそが、蜀漢という「帝国」が、単なる「益州の地方政権」へと矮小化していく致命的な転換点であった。
費禕の政治姿勢の根本には、強烈な「現状維持バイアス」と、それを正当化するための巧妙なレトリックが存在していた。それは前線で攻勢防御を仕掛けようとする姜維に対する、以下の極めて有名な発言(『蜀書』費禕伝)に凝縮されている。
「吾等不如丞相亦已遠矣。丞相猶不能平定中夏、況吾等乎!不如保國治民、敬守社稷、如其功業、以俟能者、無以為希冀徼倖而決成敗於一舉。若不如志、悔之無及。」
(我々の能力は丞相(諸葛亮)にはるかに及ばない。あの丞相でさえ中原を平定できなかったのに、まして我々にできるはずがあろうか!今は国を保ち民を治め、社稷(国家)を慎んで守り、功業は後世の有能な者に待つべきである。まぐれ当たりを願って一挙に成敗を決してはならない。もし失敗すれば、後悔しても取り返しがつかないのだ)
一読すると、身の丈を知る為政者の極めて真っ当で「現実的」な判断に見える。無謀なギャンブルを避け、「保国治民(国を保ち、民を治める)」に専念すべきだという彼の言葉は、平和な時代の官僚のロジックとしては100点満点であろう。
だが、第一章で述べた通り、当時の蜀漢は「平和な時代」などではなく、圧倒的なサプライサイド(生産力・労働力)の格差を持つ巨大帝国・魏との非対称戦の只中にあった。魏の国力増強のスピードは蜀のそれを遥かに凌駕している。農地を開墾し、技術を蓄積し、人口を増やしていく「巨大な経済圏の複利効果」を前にして、「後世の有能な者に待つ」ために時間を浪費すればするほど、相対的な国力差は絶望的なまでに開いていく。
マクロな経済格差を放置したままの「保国治民」など、数学的な現実から目を背けた完全な思考停止であり、緩やかな国家の安楽死を受け入れる宣言に他ならない。費禕の言う「現実主義」とは、戦う覚悟を持てない自己を正当化するための、極めて内向きな「敗北主義」であった。
さらに致命的であったのは、費禕のこの発言が、諸葛亮が『出師の表』で高らかに宣言し、蔣琬もまた継承した「漢賊不両立(討賊)」という国家の絶対国是に対する、事実上の「白旗」であったことだ。
トップである大将軍自らが「我々には中原の回復など無理だ」と公言し、行動(北伐)を停止することは、魏が中原を支配する正統性を暗に認めることを意味する。それは同時に、自らを「正統な漢帝国の連続体」から「益州という一地方を不法占拠する軍閥」へとダウングレードさせる思想的自殺行為であった。蜀漢を内部から強固に結束させていたイデオロギーのタガを、費禕は自身の「良識」という耳障りの良いレトリックによって自ら外してしまったのである。
その結果が、前線で国家の寿命を繋ごうと足掻く姜維に対する、冷酷なまでの軍事制限であった。
「每欲興軍大擧、費禕常裁制不從、與其兵不過萬人」
(姜維が軍を大挙して動かそうとするたびに、費禕は常にこれを裁断・制限して従わず、与える兵は一万人を超えることがなかった)
魏の西部戦線に恒常的な出血を強い、敵のサプライチェーンをかき乱すことでしか蜀漢の生存道はない。そのマクロな防衛戦略を理解せぬまま、費禕は「一万人」という圧倒的な兵力不足の足枷を姜維にはめ、魏の巨大な防衛網への絶望的な突撃を強いたのである。
費禕の「ブレーキ」は、国力を回復させたのではない。国家が生き残るための「大義(魂)」を窒息死させ、宮廷内に「戦わずして益州に引き籠もるのが善である」という致死量の毒を蔓延させたのだ。この理念なき現状維持路線の果てに、益州派の台頭と諸葛瞻という「最悪の怪物」が生まれる土壌が完全に整うこととなるのである。




