1-3. 姜維の絶望的な孤独と「帝国の維持」
蔣琬が構想した水路経由のダイナミックな攻勢計画は、彼の病死と朝廷内の消極論によって頓挫した。その後、費禕による「兵力出し惜しみ」の停滞期(この詳細な罪過については次章で詳述する)を経て、蜀漢の軍事の全権はついに姜維へと託されることとなる。
蜀漢の歴史、とりわけその後半戦において、姜維ほど勝者(晋)の歴史観によって歪められ、不当に貶められた将軍は存在しない。陳寿は『蜀書』姜維伝の末尾(評)において、彼に対して極めて冷酷な筆を振るっている。
「姜維粗有文武、志立功名、而玩衆黷武、神明墜矣」
(姜維には大雑把に文武の才があり、功名を立てる志があったが、民衆をもてあそび武力を濫用し、ついに国家を滅亡させた)
陳寿、ひいては司馬氏の晋朝廷が作り上げたこの「姜維=国力を疲弊させた戦争狂」というプロパガンダは、見事なまでに後世の歴史観を縛り付けた。しかし、当時のマクロな国力差と、蜀漢という国家のレゾンデートル(漢室復興・討賊)を正しく理解すれば、姜維の行動の真意は全く別の次元に浮かび上がってくる。
前述の通り、圧倒的なサプライサイド(生産力・供給能力)を背景に自己増殖を続ける魏という巨大な怪物に対し、益州という狭い檻の中から対抗するには、敵の供給網と前線を乱し続ける「攻勢防御」しか手段がない。姜維の度重なる北伐(主に隴西・天水方面への進攻)は、決して無軌道な領土的野心によるものではない。
魏の右腕である涼州方面を脅かすことで、恒常的に敵の西部戦線に出血を強い、魏の軍事バランスの固定化と国力増強のスピードを削ぐための、極めて高度で合理的な「遅滞戦闘」であった。同時に、西方遊牧民族(羌族や胡族)を自陣営に引き込むことで、蜀漢の致命的な弱点である「労働力・兵力不足」を補おうとする、マクロ経済的な資源獲得戦略でもあったのである。
しかし、姜維の戦いは絶望的な孤独の中にあった。
「每欲興軍大擧、費禕常裁制不從、與其兵不過萬人」
(『蜀書』姜維伝:姜維が軍を大挙して興そうと欲するたびに、費禕は常にこれを裁断・制限して従わず、与える兵は一万人を超えることがなかった)
大将軍であった費禕が存命の頃、姜維は常に「一万人」という圧倒的な兵力不足の状態で、魏の巨大な防衛網に突撃することを強いられていた。費禕の死後、ようやく大規模な軍事行動が可能になったものの、今度は中央の朝廷内で益州出身の官僚たちが「もう戦争はやめて、大人しく魏の属国になろう」という敗北主義(譙周の『仇国論』に代表される)に傾倒していく。
「天下(中華全土)」を覆っていたはずの蜀漢の視界は、徐々に「益州」という一地方の安定へと矮小化しつつあった。
姜維はそのような宮廷の腐敗と敗北主義を背に受けながら、「討賊の剣を収めれば、その瞬間に蜀漢は『漢帝国』ではなくなり、内部から崩壊する」というイデオロギーの真髄を、痛いほど理解していた。中央の朝廷からは「戦争狂」と白眼視され、理解者のいない孤立無援の状態で、それでも彼は「諸葛亮の夢」を、劉備から続く「漢室復興」の炎を絶やさぬよう、自らの命と蜀の国力を削って最前線に立ち続けたのである。
後に彼が漢中防衛において提案した「斂兵聚谷(れんぺいしゅうこく/敵を要害の奥深くまで引き込み、補給線を延ばさせてから平地で殲滅する戦略)」も、兵力不足の中で魏の侵攻を完全に叩き潰すための、極めて理にかなった軍略であった。しかし、その戦略も最終的には、次章以降で述べる諸葛瞻ら「内向きの権力者」たちの軍事的無理解と保身によって、最悪の形で瓦解することになる。
姜維の流した血と汗こそが、蜀漢という国家が最後まで「帝国」としての尊厳を保ち得た唯一の理由であった。彼こそが、諸葛亮から受け継がれた武の系譜の、最後の、そして最も悲壮な体現者なのである。




