第6章:平原の歩き方
12月10日(月曜日) 事故から約二週間。
松葉杖を返却し、サポーターで固めた右足を引きずりながら、聡は久しぶりに本社のオフィスへと足を踏み入れた。
いつもなら、周囲の目が怖くて自席に直行し、パソコンの画面に逃げ込んでいただろう。
だが今の聡は違った。彼は受付を通った後、自席へは向かわず、まっすぐにプロジェクトマネージャーである寺崎の席へと歩みを進めた。
自分の無謀な行動のせいで、最も胃を痛め、最もクライアントからのプレッシャーに晒されたのは、目の前に立つこの上司だったからだ。
「寺崎さん。本日より復帰いたしました」
聡は、寺崎のデスクの前できちんと直立し、深く頭を下げた。
「私の自己管理の甘さ、そして無責任な行動により、プロジェクトに多大なご迷惑をおかけし、寺崎さんを限界まで追い詰めてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」
オフィスに張り詰めた静寂が広がる。デスクワークをしていたメンバー数人が、ゴクリと唾を飲み込んで二人を見つめた。
寺崎は眼鏡のブリッジを押し上げ、しばらく無言で聡の頭の頂点を見つめていた。
「……頭を上げろ、志賀」
寺崎の声は低かったが、月曜朝の電話のような刺々しさはない。
「怪我はもういいのか」
「はい。日常業務や歩行には支障ありません」
「そうか。お前が病床から送ってきたQ&A想定シートは、木村がプレゼンを乗り切るのに役に立った。そこは評価する。だが、失った信用はそう簡単には戻らんぞ。お前に対する正式な社内処分(始末書の提出と冬期ボーナスの査定減額)は、このプロジェクトが片付いた後に人事と進める。いいな」
「はい。いかなる処分も受け入れます」
「よし。席に戻って仕事にかかれ。今日から地獄だぞ」
「失礼します」
聡はもう一度深く一礼し、ようやく自席へと向かった。
自席に着くと、隣の席の木村――あの月曜日に、聡の代わりにクライアントへの釈明と急ご
しらえのプレゼンを強引に背負わされた同僚――は、こちらを見ようともせず、キーボードを激しく叩く音だけを返してきた。
聡は木村に向き直り、静かに、しかしはっきりと語りかけた。
「木村、本当にすまなかった。俺の勝手な行動のせいで、お前にとんでもない負担をかけた」
木村は手を止め、深く、重い溜息をついた。
「……本当ですよ。志賀さんが滑落したって聞いたとき、心配より先に『嘘だろ、今日なのにかよ』って思いました。あの日のプレゼン、クライアントからボコボコにされて、俺、胃に穴が空くかと思いましたからね」
「当然の怒りだと思う。埋め合わせになるか分からないが、仕様変更に関する残りの設計ドキュメントとテストコードは、俺が全部引き受ける。お前の負担を削るために何でも言ってくれ。やれるだけのことはやる」
木村はしばらく聡のサポーターが巻かれた足元を見つめていたが、やがて「仕様変更、かなり面倒なことになってますよ。手伝ってもらわないと本当に終わりませんからね」とだけ言って、画面に設計書を呼び出した。
許されたわけではない。失ったプロとしての信頼は、これからの日々の仕事という「実績」でしか取り戻せないのだ。
数時間後、午後になって、寺崎が二人の席に厳しい表情でやってきた。 「志賀、木村。例のクライアントからさらなる『追加要件』がねじ込まれた。今週中にこの要件を反映させたプロトタイプを見せろと言われている。木村も他のメンバーも手一杯だ。志賀、お前がメインでやってくれ」
寺崎が提示したドキュメントを、聡は静かに読み込んだ。
かつての聡なら、復帰直後の負い目も手伝って、「やります、何とかします」と二つ返事で引き受け、再び深夜残業の泥沼に飛び込んでいただろう。
だが、あの夜、山の中で「持っているガスと水、体力の限界」を冷徹に計算した経験が、
彼の脳を動かした。
この追加要件をこの納期で受けることは、物理的に不可能なスケジュールを精神論でカバーしようとする行為だ。それは、開発システム全体の破綻を意味していた。
「寺崎さん。この要件をこの納期で受けることは、お断りすべきです」
オフィスの空気が、一瞬で凍りついた。木村も驚いたように顔を上げた。
「おい、志賀。自分の立場が分かって言っているのか?」
寺崎の目が、怒りで細められた。
「お前が穴をあけたせいで、ただでさえプロジェクトはガタガタなんだぞ。ここでクライアントの要求を断ったら、今度こそ契約を切られるかもしれないんだ!」
「断るのではなく、交渉するんです」
聡は声を荒らげることなく、極めて論理的に答えた。
「この要件を反映させるには、データベースの基本設計の改修が必要です。それを今から四日間で行う場合、結合テストの工程を完全に省略せざるを得ません。その場合、本番環境に移行した際、高確率でデータの整合性バグが発生し、システム全体が緊急停止します。そのリスク予測シートと、代替プランのロードマップは私が今から一時間で作成します」
聡はキーボードを叩き、二週間、病床の中で考え抜いていた「システムの依存関係マップ」を画面に広げた。
「そして、寺崎さん。この交渉の場には、私も同行させてください。システム構成の技術的なリスクと、代替プランの実現可能性については、設計者である私から直接クライアントに説明し、すべての質問に答えます。責任は私が持ちます」
寺崎は絶句した。隣の席でコードを書いていた木村も、驚いたように顔を上げた。
これまでの聡なら、リスクを指摘することはあっても、クライアントからの直接の叱責やプレッシャーを恐れ、交渉の席には寺崎を一人で行かせ、自分は後ろに隠れていることが多かった。それが、寺崎の胃に穴を空け、中間管理職としての孤独な戦いを強いていた原因でもあった。
だが、あの夜、冷たい闇の中で生死の決断をすべて一人で下してきた聡にとって、対面での厳しい交渉など、避けるべき障害物の一つに過ぎなかった。自分が作ったシステムだからこそ、自分で仕様を説明し、安全に導く義務がある。
寺崎はしばらく聡の濁りのない、まっすぐな目を見つめていたが、やがて短く息を吐き出した。
「……資料は一時間だ。すぐに役員とクライアントの担当者にアポを入れる。志賀、お前が自分で説明するんだぞ。ボコボコにされても俺は助け船を出さんからな」
「望むところです」
――同日、午後3時。クライアント会議室。
会議室の空気は、予想通り荒れに荒れた。
「今更スケジュールを延ばせとはどういうことだ」「そちらの社内事情をこちらに押し付けるな」という、激しい言葉が聡に浴びせられた。横に座る寺崎が緊張で拳を握りしめているのが分かった。 しかし、聡の心は驚くほど静かだった。感情的な怒鳴り声は、ただのノイズに過ぎない。
「皆様のお怒りはごもっともです。私の個人的な不始末により、プロジェクトに遅延の兆候を発生させたことについては、重ねてお詫び申し上げます」
聡は深く頭を下げた後、顔を上げ、プロジェクターの画面を指し示した。
「しかし、だからこそ、これ以上の強行突破は避けるべきです。こちらが、4日間で強行実装した場合に発生する、データクラッシュの確率グラフです。もし決済システムが停止した場合、御社が被る損失は、リリースを2週間延期する損失の約八十倍に達します。我々が提案するのは、リリースを2週間延期し、確実に動作を保証できる『二段階のフェーズ分けリリース』を行うプランです」
聡は、技術的な難所、データの依存関係、そして代替プランを採用した場合のテスト項目
の網羅率を、一切の淀みなく、事実のみで論理的に説明しきった。
感情論で押し切ろうとしていたクライアントの担当者たちも、聡が提示した「全壊のリス
ク数値」を前にして、次第に黙り込んでいった。
沈黙の末、クライアントのIT部門責任者が、重い口を開いた。
「……確かに、リリース初日に決済が落ちたら、我々の首も飛ぶ。志賀さんと言ったか。
あなたがそこまでリスクを明確に見通し、代替案の品質を保証すると言うなら、この『二段階リリース』のルートで上を説得しよう」
「ありがとうございます。必ず、安全に着地させます」
会議室を出た瞬間、寺崎がその場にへたり込むようにして、ネクタイを緩めた。
「心臓が止まるかと思ったぞ……。だが、お前が全部技術的な裏付けを説明してくれたおかげで助かった。志賀、お前、山から帰ってきてから、何か雰囲気が変わったな」
「そうですか。少し、視野が広くなっただけかもしれません」
聡は、静かに微笑んだ。




