第5章:月曜日からの地図
11月26日(月曜日)
午前8時45分。
いつもなら、聡は満員の通勤電車に揺られ、スマートフォンでSlack(ビジネス向けチャットツール)に飛び交う未処理やバグ報告を血眼で追っている時間だった。
しかし今、彼は白い壁に囲まれた静かな病室のベッドの上にいた。
前日の日曜日、午後5時過ぎに通報したのち、救急搬送された松本市内の病院。
極度の肉体疲労と低体温症の初期症状、および右足首の激痛に対し、医師は即座に強い消炎鎮痛剤と水分補給の点滴を投与した。
薬の副作用と、24時間以上張り詰めていた緊張の糸が切れたことで、聡は日曜の夜から月曜の朝まで、意識を失うように泥のように眠り続けていた。
朝、看護師に起こされ、ようやく意識がはっきりとした。右足はギプスで頑丈に固定されている。
「……電話を、かけたいんですが」
カサカサに乾いた声で、聡は看護師に頼んだ。スマホはあのガレ場で完全に大破しており、手元にはない。
看護師から手渡されたのは、病院のプリペイドカード式の有線電話機だった。
聡は、自身の登山用スマートウォッチのメモリに登録されていた会社の電話番号と、寺崎の社用携帯の番号を液晶画面に呼び出し、病室の電話機のプッシュボタンを一行ずつ慎重に押し込んだ。
午前九時ちょうど。
受話器の向こうで呼び出し音が鳴り響く。数回のコールの後、ガチャリと通話が繋がった。
『……はい、寺崎です』
受話器から聞こえてきたのは、見知らぬ「0263」から始まる固定電話の番号からの着信に対して、怪訝そうに、そしてどこか警戒している寺崎の張り詰めた声だった。
「寺崎さん。志賀です。朝早くに申し訳ありません」
聡が名乗った、その瞬間だった。
受話器の向こうの空気が一変し、寺崎の怒気を含んだ大声がスピーカーから割れて響いた。
『志賀!? お前、今どこからかけてるんだ! スマホはどうした! 土曜から連絡がつかないから、バックレたのかと思ったぞ! 今日の午前中のクライアントミーティング、お前がいないとシステムの説明ができないんだ。すぐオフィスに来い!』
「寺崎さん。申し訳ありませんが、今日はオフィスには行けません。今、長野県松本市内の病院に入院しています」
『は? 入院? なんでそんなところにいるんだよ!』
「週末に山で滑落しました。右足をひどく負傷し、自力歩行ができません。スマホも滑落の際、岩にぶつけて完全に破損しました。昨夜、救急搬送され、今朝まで点滴で意識を失っていました。連絡が遅れたことはお詫びします」
一瞬の沈黙の後、受話器の向こうから漏れ出たのは、同情でも心配でもなく、明確な「舌打ち」だった。
『……は? 山で滑落? お前、ふざけてるのか? 今日のプレゼンがどれだけ重要か分かってて言ってるのか? クライアントの役員がわざわざ来るんだぞ。説明できるのはお前だけなんだ。そのタイミングで、週末に趣味の山登りに行って怪我して入院? 自己管理はどうなってるんだよ!』
「……申し訳ありません」
『申し訳ありませんで済むかよ! お前が来ない分の穴埋めを、誰がやると思ってるんだ?
木村も山下もな、お前が金曜深夜に上げたデモ資料をベースに、土曜朝にクライアントから急に入った「見積もり条件の変更」の対応で、土日両方とも終電まで調整やってたんだぞ! お前が「自分の仕事は終わった」とばかりに山で遊んで怪我してる間、あいつらは徹夜続きでお前の資料の裏取りをやってたんだ! そのあいつらに、これからお前のプレゼンの代行まで背負わせる身にもなってみろよ!』
その言葉は、正論だった。
ぐうの音も出ないほどに、社会人としての聡の「甘さ」と「無責任さ」を正確に突いていた。かつての聡であれば、この激しい詰問に完全に精神を叩き潰され、罪悪感と自己嫌悪で息ができなくなっていただろう。謝罪を連発しながら、ギプスを切ってでもタクシーで会社に向かうと口走っていたかもしれない。
だが、あの極寒のツェルトの中で、一滴の水とガス残量を計算し、自力で生と死の境界線を越えてきた聡の心は、不思議なほど凪いでいた。
寺崎の怒りはもっともだ。だが、今の自分に「できないこと」を「気合でやる」というの
は、破滅への道だった。
聡は、寺崎の怒りの呼吸が一段落するのを静かに待ち、受話器にしっかりと声を返した。
「寺崎さん。お怒りは当然ですし、メンバーへの負担については、私の判断の甘さが原因です。本当に申し訳ありません。ですが、どんなに叱責されても、今の私の肉体は、物理的に東京のオフィスに移動することができません」
『だったらリモートでもいいから繋げ!』
「精密検査と痛み止めの点滴の最中で、意識をクリアに保てません。この状態でクライア
ントの前に出れば、かえって誤った説明をして信用を失うリスクが高まります。それこそプロジェクトの完全な破綻を招きます」
聡は、自分の「リソースの限界」を冷酷に、客観的に提示し続けた。
「仕様書と現在のデバッグログは、木村がアクセスできる共有サーバーに全て同期してあります。木村の負担を減らすため、私がベッドの上からテキストで書ける限りの『Q&A想定シート』と『引き継ぎメモ』を、今から一時間以内に作成して共有します。今日の会議は、それで木村に代行させてください」
『……お前、本気で言ってるのか。今日のプレゼン、木村だけで乗り切れると思ってんのかよ』
寺崎のトーンに、怒りから焦りと諦めが混ざり始める。
「乗り切らせます。木村は裏取り作業で仕様を誰よりも理解しています。私のQ&A想定シートがあれば、技術的な質問には耐えられます。本日発生した不手際に対する社内処分、および他メンバーへの補償については、会社側のいかなる判断にも従います。本日の会議、木村の代行を承認してください。お願いします」
受話器の向こうで、寺崎の荒い呼吸音がしばらく続いた。やがて、深く、重い溜息が聞こえた。
『……わかった。木村を呼ぶ。お前はすぐにその想定シートを送れ。一時間後だぞ。それと、産業医への報告もあるから、診断書が出たらすぐに写真を送ってこい』
「ありがとうございます。すぐに作成します」
寺崎が『……まったく、とんでもない災難だよ』と諦めたように吐き捨てて電話を切るのを待ってから、聡は静かに受話器を置いた。
受話器を下ろした聡は、ベッドのヘッドボードに頭を預け、ゆっくりと息を吐き出した。
会社からの評価は地に落ちただろう。明日からの風当たりは想像を絶するものになるはずだ。
それでも、彼は自分というシステムを完全に崩壊させる前に、筋を通した交渉プロセスを経て、強制的にシャットダウンすることに成功したのだ。
その選択の正しさは、この先の仕事の中で、彼自身の手で証明していくしかなかった。




