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凍れる呼び声  作者: 古屋桜


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第4章:境界線

 午後3時45分。

 太陽は西の山稜へと急速に傾き、山の影が長く伸びていた。気温は再び氷点下へと引きずり下ろされようとしている。

 聡の肉体は、とっくに限界を迎えていた。

 右足首の痛みは、すでに鋭い激痛から、ズキズキとした重く鈍い「熱」のような感覚へと変わっていた。感覚が麻痺し始めているのは、寒さのせいか、それとも脳が痛みの許容量を超えたせいか。

 ストックを握る両手のひらは摩擦で皮が剥け、ザックのショルダーベルトが肩に深く食い込んでいた。

「……あと、少しのはずだ」

 聡は足を止め、荒い息を吐きながら前方を見つめた。

 尾根ルートの傾斜は、彼の地図読み通り、確実に緩やかになっていた。沢沿いのルートAを選んでいれば、今頃は凍結した滝の横で、一歩も身動きが取れなくなって立ち往生していただろう。自分の頭で考え、導き出した論理的な選択が、彼をここまで運んできていた。

 だが、安堵の息を漏らす余裕はなかった。

 足元が砂利から、土と混じった踏み固められた道へと変わっていく。ついに、夏用の登山道との合流点に達したのだ。ここからは、緩やかな林道が下山口まで続いている。

 しかし、その合流点に立った聡の視界に、残酷な現実が映り込んだ。

 林道には、先日の台風の影響だろうか、巨大な倒木が何本も重なり合って道を完全に塞いでいた。

「嘘だろ……」

 昨日の時点の地図には、当然そのような最新の障害情報は載っていない。

 迂回するには、再び急な斜面を登り直すか、あるいは倒木の隙間を這って進むしかない。

 だが、右足の動かない今の聡に、そんな動きは不可能に近かった。

 一瞬、絶望が頭をよぎる。

 しかし、これまでの24時間で、聡の脳は「パニックになる時間は無駄だ」と学習して

 いた。

「落ち着け。解決策は必ずある」

 聡はザックを下ろし、壊れたスマートフォンの画面をもう一度見た。やはり沈黙したままだ。

 だが、その時、彼は自分のポケットにあるもう一つの「電子機器」の存在を思い出した。

 ――スマートウォッチ(登山用GPS腕時計)だ。

 スマホのように通話はできないが、GPS機能と簡易的な地図表示機能、および「登録した地点へ戻るナビゲーション」が生きている。滑落した時の衝撃でベゼルに傷は入っていた

 が、画面は頑丈なサファイアガラスのおかげで品質を保ち、動いていた。

 聡はウォッチの画面を操作し、周囲の地形データを呼び出した。 「倒木のエリアは、長さにしてわずか30メートル。この林道をそのまま進むのは無理だが、左手の斜面を10メートルだけ下れば、林道の下を走る旧作業道に接続できる」

 肉眼では鬱蒼とした藪にしか見えない場所だったが、GPSが示すルートは確かにそこにあった。

 聡はストックをザックに固定し、地面にお尻をついた。不格好極まりないが、これが最も安全な移動方法だった。右足を浮かせ、左足と両手を使って、斜面をずるずると滑り降りる。

 藪を掻き分けた先、かつて使われていた古い林道の跡が、枯れ葉に埋もれるようにして現れた。

「繋がった……」

 接続ルートを抜け、再びメインの林道に戻る。倒木エリアは完全に彼の背後にあった。

 そこから先は、ただ無心で足を動かすだけだった。


 午後5時10分。

 森の木々が途切れ、視界が開けた。

 目の前に現れたのは、茶色く錆びた鉄製のゲートと、登山ポスト。そして、その脇に佇む小さなプレハブの管理事務所だった。

「助かった……!」

 聡は安堵し、プレハブの引き戸へ手をかけた。しかし、ガタガタと音を立てるだけで、戸は固く閉ざされていた。窓の隙間から覗き込むと、中は暗黒に満ちていた。

 11月後半のこの時期、平日におけるこの管理事務所はすでに冬季閉鎖に入っており、完全に無人だったのだ。窓の向こうで小さく点滅していた赤い光は、人の気配ではなく、ただの火災報知器の動作LEDランプに過ぎなかった。

 中に入って暖をとることはできない。

 体温の低下はすでに限界に達しており、じっとしていればすぐに低体温症で意識を失う危険があった。

 スマホは壊れている。辺りに人の気配はない。

 聡はプレハブの軒下から周囲を見回し、ゲートのすぐ脇に立つ、黄色いペイントが施された一本の金属製ボックスを見つけた。

「登山者用の、緊急通報専用電話……!」

 携帯電話の電波が不安定なこのエリアにおいて、登山ポストの横に設置されている、有線

 接続された冬期用の非常通報装置だった。

 聡は痛む右足を引きずり、凍える手でボックスの扉を開けた。

 受話器を取り、冷え切った指先で緊急通報の赤いボタンを強く押し込んだ。じきに、受話器の向こうから、ノイズ混じりだが確かな「人間の声」が聞こえてきた。

「はい、こちらは警察本部です。どうされましたか」 その声を聞いた瞬間、聡の胸の奥から、冷たい塊が溶け出すようにして熱いものが込み上げてきた。

 救助ヘリが通りかかることも、誰かが通りかかることもなかった。彼は自分の足と、自分の頭で、この境界線を越えて戻ってきたのだ。

「……志賀聡と申します。前穂高岳から下山中、右足を負傷しました。現在、釜トンネル前のゲート付近にいます」

 状況を的確に説明する彼の声は、山に入る前よりも不思議と落ち着いており、そして、確かに生きていた。

 月曜日からの炎上プロジェクトのことは、まだ頭の隅にも浮かんでいなかった。ただ、生きているという実感だけが、彼の凍えた身体を芯から温めていた。

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