第3章:沈黙の山路
長い、凍てつくような夜が明けた。
ツェルトの隙間から差し込む光が、灰色から眩しい白へと変わっていく。聡は強張った体を動かし、外を覗いた。
昨日の濃霧が嘘のように引き、そこには息をのむようなコバルトブルーの空が広がっていた。放射冷却のせいで空気は肌を刺すように冷たいが、視界は良好だった。
「動けるか……」
聡は右足の靴紐を恐る恐る緩め、患部を確認した。
「――うっ」
声にならない呻きが漏れる。足首は昨日よりも一回り以上腫れ上がり、赤紫色の鬱血が痛々しく皮膚を染めていた。一晩休めば痛みが引くなどという奇跡は起きなかった。むしろ、冷えて固まった筋肉と関節は、昨日よりも強烈な痛みを主張していた。
聡はザックから紙の地図とプレートコンパスを取り出し、岩の上に広げた。
「現在地は……おそらく昨日滑落した場所から考えて、標高2400メートル付近のこのガレ場だ」 残された選択肢は二つ。
一つは、この場所で救助を待つこと。
しかし、出発前に誰にも「登山届のルート変更」を伝えておらず、携帯も壊れている。捜索隊が自分の足跡を辿ってこの場所に辿り着くまでには、最低でも中一日、あるいはそれ以上かかる。手元の非常食と、半分以下のガス缶では、今夜の冷え込みをもう一度越すのは凍死のリスクが極めて高かった。
「……動くしかない」
もう一つの選択肢は、自力での下山だった。
地図を睨む。ここから下山口のゲートへ至るには、二つのルートが存在した。
ルートA 沢沿いルート): 距離は短く、標準タイムなら二時間で下れる。しかし、地図上の斜度が非常に急であり、昨日の降雪が凍結している可能性が高い。捻挫した足で一度でもスリップすれば、再度の滑落死を意味する。
ルートB 尾根ルート): 距離はルートAの倍近くあり、回り道になる。しかし、傾斜が緩やかで、アップダウンも少ない。
焦る頭は「少しでも早く降りたい、距離の短いルートAへ行け」と危険な誘惑を囁きかける。
だが、仕事で数々のトラブルを処理し、不具合を排除してきた聡の論理的思考が、その焦りを却下した。
「距離が短いことは、安全であることを意味しない。足が壊れている今の俺に必要なのは、斜度の緩やかさだ。スリップの危険が最も低いルートBを選ぶべきだ」
聡は、トレッキングポールの長さを最大に伸ばし、右足にかかる荷重を分散するための支えとして調整した。
ザックを背負い、立ち上がる。右足がわずかに地面に触れただけで、頭を直接殴られたような衝撃的な激痛が走る。聡は奥歯を噛み締め、一歩を踏み出した。
午前八時。
太陽の光が新雪に反射して眩しく輝く中、聡は亀のような速度で歩み始めた。
ルートBの尾根は、風を遮る樹木がなく冷たかったが、足元は聡の計算通り比較的安定していた。等高線を頭に叩き込み、コンパスの針が示す北と、地図上の尾根の向きを何度も照らし合わせる。
「焦るな。次の目印は300メートル先の一本松だ。そこまで行けば、傾斜はさらに緩やかになる」
一歩、また一歩。
単調で、気が遠くなるほどの苦痛を伴う前進。
だが、昨日まで彼を苛んでいた「仕事の焦燥感」は、不思議なほど消え去っていた。
今、彼の全存在は「次の一歩をどこに安全に置くか」という極めて単純で、本質的な生存の計算だけに集中していた。




