第2章:冷たい現実
午後3時15分。
山の冬は、夜の訪れが異常に早い。急速に気温が下がり、手袋をしていない指先が感覚を失い始めているのを、聡は敏感に察知していた。
放っておけば、パニックが思考を支配し、凍死へのカウントダウンが始まる。聡は冷たくなった両手で自分の頬を強く叩き、強引に意識を覚醒させた。
「落ち着け。仕事のトラブルと同じだ。何が起きていて、何が手元に残っているかを整理するんだ」
ここで最も避けるべき問題は、視界の効かない暗闇の中で無理に歩き回り、さらに滑落して本格的に行動不能になることだ。
スマホは壊れた。外部に助けを呼ぶ手段は絶たれた。
聡は痛む右足を引きずりながら、四つん這いになって周囲を這い回った。幸いにも、滑落現場から数メートル横に、巨大な一枚岩が斜めに突き出し、天然の屋根のようになっている「岩小屋」状の隙間を見つけた。風を遮るには十分な場所だった。
聡は岩陰に潜り込み、ザックを下ろしてその中身を平らな石の上にすべて並べた。
常備されていたザックの中身は、数ヶ月前の自分がパッキングした通り、過不足なく揃っていた。
ツェルト(簡易テント)×1
ガスバーナーと小型クッカー ×1セット
水残り700ml
非常食(カロリーメイト2袋、羊羹3個、フリーズドライのスープ2食)
防寒着(薄手のダウンジャケット、フリース)
ヘッドランプ(予備電池あり)
地図とコンパス 「食料は極限まで節約すれば二日持たせられる。水は残り700ml 今夜温かいスープを一杯作っても、明日の行動分は残る。明日以降は、周囲の雪を溶かせば増やせるが……バーナーのガス缶の残量が半分以下だ。無駄遣いはできない」
冷静に手持ちの「資源」を数値化していくことで、心臓の鼓動が次第に落ち着いていくのを感じた。
聡はバーナーを組み立て、風を遮りながらマッチを擦った。パッと赤い火花が散り、青い炎がシュッという音を立てて燃え上がる。その小さな熱源が、凍えかけていた聡の心に明かりを灯した。
クッカーに入れた水が沸騰する。フリーズドライのオニオンスープを溶かし、ゆっくりと口に含んだ。
塩分と熱が、食道を通って冷え切った内臓を直接温めていく。指先に血が巡り、じんわりと感覚が戻ってきた。
「……まだ、耐えられる」
ツェルトを頭からすっぽりと被り、冷たい地面からの熱を遮断するためにザックの上に腰を下ろした。右足首の腫れを少しでも抑えるため、ハンカチに雪を包んでブーツの上から患部に当てる。
外では、ゴオゴオと冬の嵐が咆哮を上げ始めていた。薄いナイロン一枚の向こう側は、人間を数時間で凍死させる極寒の世界だ。
明日の朝、もしガスが晴れたら、その時は自力で下山しなければならない。それまでは、この薄い壁を信じて、己の体温をただ維持し続けるしかない。
聡は膝を抱え、長く、冷たい山の夜を静かに迎え入れた。




