第1章:予兆と転落
登場人物
志賀 聡(しが さとし・29歳):
大手システム開発会社に勤務するシステムエンジニア。プロジェクトの炎上により慢性的
な睡眠不足と軽度のうつ状態(認知の歪み)に陥っていた。
乾いたロープの匂いと、冷え切ったナイロンの肌触りだけが、今の志賀聡が信じられるすべてだった。
「まずいな」
口から出た言葉は、白く濁った吐息となってすぐに目の前の白い霧の中に吸い込まれて消えた。
11月24日、午後1時15分。北アルプス、前穂高岳の稜線。標高2500メートル付近。
周囲を包むガスは急速に濃くなり、進むべき登山道を示すペンキのマークすら見失うほどだった。
引き返すなら、登山口を出発した午前六時の段階が、最初にして最大のチャンスだった。
その時点ですでに空は重く垂れ込める雲に覆われていた。
だが、聡には「家で休養する」という選択肢を選ぶことが、どうしてもできなかった。
彼が担当するシステム開発プロジェクトは、数ヶ月前から破綻していた。
月曜日の朝には、今後のプロジェクトの命運を決める、クライアント役員を交えた最重要システムデモ会議が控えていた。聡はそのデモ環境の構築と、説明資料の作成という技術的な最重要タスクを任されていた。彼は自分の身を削り、金曜日の深夜、日付が変わる頃にようやくすべてのソースコードをコミットし、資料をサーバーにアップロードした。
タスクはすべて完了した。金曜深夜、フラフラになりながらオフィスを出る際、プロジェクトマネージャーの寺崎からこう言われたのを覚えている。
『志賀、お前の分の準備は完璧だ。月曜日のプレゼンはお前が主役なんだから、土日はしっかり寝て、体調を整えておけよ』
だが、聡には「家で休養する」という選択肢が、どうしても選べなかった。
家でただ横になっていても、脳は休まらなかった。瞼を閉じれば暗闇の向こうに未処理のエラーコードが明滅し、耳の奥では月曜日の朝に届くであろうクライアントからの叱責の電話が幻聴となって響く。無意識にスマートフォンを握りしめ、仕事用のチャットツールを確認しては動悸を激しくする。そんな自室での時間は、聡にとって休養ではなく、終わりなき拷問だった。
『山に行けば、物理的に携帯の電波が切れる。仕事のことを強制的に考えずに済む』
それは、極限状態の脳が弾き出した、恐ろしく歪んだ「論理」だった。
肉体はとうに限界を超えて悲鳴を上げていたはずだった。だが、深夜2時に帰宅した聡の脳は、ストレスと「一瞬だけ解放された」という異常な興奮によってアドレナリンが過剰分泌され、強烈なランナーズハイに陥っていた。疲労というセンサーは完全に麻痺し、体は軽くさえ感じられた。 聡は、部屋の隅に置かれていた大型の登山ザックを掴んだ。
入念な準備をしてから出発したわけではない。そのザックは、仕事で追い詰められていた数ヶ月間、毎夜「いつか山へ逃げ出すんだ」という妄想だけを心の支えにして、ツェルトやバーナー、非常食などの装備をいつでも出発できるよう完璧な状態でパッキングし、部屋に常備していたものだった。
深夜の朦朧とした意識のまま、聡はただ、部屋のオブジェと化していたその重いザックを背負い、何かに取り憑かれたように松本行きの深夜高速バスに飛び乗った。
「寺崎さんは休めと言った。デモ環境はもう作った。なら、月曜日までにこの狂いそうな頭をリセットするために、今、山に行くことこそが、月曜日のプレゼンを成功させるための唯一の手段だ」
脳が「疲労」を自覚することを拒絶し、アドレナリンで肉体の悲鳴をマスキングした結果の、無謀な強行軍だった。
その痛々しいほどの執着と、疲弊ゆえの正常なリスク管理能力の喪失が、彼にこの危険な初冬の単独行を強行させていた。
「大丈夫だ。あの時と同じように、一歩ずつ進めば必ずクリアできる」
そう自分に言い聞せて登り続けたが、山は残酷だった。
青空が広がる兆候はなく、正午を過ぎたあたりから谷底から湧き上がったガスが急速に稜線を包み込み、一気に周囲の視界を奪い去った。気温は急降下し、冷たい風が雪混じりの突風となって頬を叩く。
アドレナリンの効果が切れかかり、鉛のように重くなった四肢に、ようやく本物の疲労がのしかかってきた時には、もう遅かった。
「早く、樹林帯まで降りないと……」
焦燥感に急かされ、聡は下山ルートに向けて一歩を踏み出した。だが、慢性的な寝不足と急激に襲ってきた肉体的疲労で鈍っていた彼の感覚は、足元の微細な変化を捉えきれなかった。
右足のブーツが乗った平らな岩が、自重がかかった瞬間に音もなく不自然に傾いた。
「浮き石」だった。
「あっ――」
短い悲鳴すら喉に詰まった。
世界が斜めに回転する。背負った12キロのザックの重みに身体をもっていかれ、聡はガレ場を引きずられるように滑り落ちた。
滑落する視界の中で、硬い岩の角が、彼の脇腹、右太もも、および右足首を容赦なく強打した。ゴロゴロと乾いた音を立てて奈落へと落ちていく石の音が、やけに遠く聞こえた。
数メートル滑り落ちたところで、ハイマツの頑丈な枝がザックのフレームに引っかかり、滑落は奇跡的に止まった。
聡は冷たい岩の上に仰向けのまま、しばらく荒い呼吸を繰り返した。
「生きてる……か?」
指先を動かす。動く。首も回る。恐る恐る上半身を起こし、最も強い痛みを主張している右足首に手を当てた。
「――っ!」
ブーツの上から軽く触るだけで、目の前が真っ白になるほどの激痛が走る。重度の捻挫だった。わずかでも体重をかけようとすると、頭の芯が痺れるような痛みが突き抜け、立っていることすら困難だった。
「スマホ、スマホは……」
震える手でジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。
しかし、液晶画面は蜘蛛の巣状に細かく割れ、角からは内部の基盤が露出していた。
滑落の衝撃で完全に破壊され、電源ボタンを何度長押ししても、黒い画面は冷たく沈黙を保ったままであった。
周囲を見渡しても、霧の壁があるだけだった。風の音だけが、聡の耳元で冷たく囁き始めていた。




