第四十話:自己紹介
時間は少し遡る。
目を開くと、そこには世界があった。
「……」
上体を起こすと網膜を灼くような夕映えの中に一本の山道が伸びている。
土の匂いと、腐葉土が発酵するような濃い緑の香りが鼻腔をくすぐる。
手のひらに落ち葉の感触があった。
焦点の定まらない視界のまま、しばらくその静寂を眺めた。
次になんとなく空を見上げると、
ちょうど真上には赤い電柱のようなものが視界を遮る。
「――ッ!?」
慌てて振り返る!
そこに記されているのは、既視感のある神社であり、
――と、そこで茶色と緑の自然に混じった"白銀の人工物"が一瞬だけ写った。
その正体は――、
「こんにちは。名は?」
女の声。
腰まで届く長く綺麗な髪を纏う白装束は、巫女の姿をしていた。
「フッ――。ククク、なるほどなるほど……」
何故この可能性に至らなかったのか――。
己の想定不足に自己嫌悪するも、予め知っていたとして予防できるものではない。
(いや……そうでもないか)
もし事前に分かっていれば、タバコとライターぐらいは地面に埋めて居たかもしれないが……この状況で、そんなものは些事か。
前回同様自然と胸に手を伸ばすと、そこに四角い箱の存在を認識した。
「サービス」
「おやおやおや、これは助かる。随分と気前がいいんだな」
彼女の吊り目には、自信が宿っている。
ラッキーストライクごときで喜ぶのかと問われれば、ここから下山する際とても重宝するだろう。
我ながら単純な男だ。
「さて、ささやかなお礼にはなるが、まずは質問に答えよう」
せっかくの差し入れに火を点けると、銀鼠が空に浮かび上がる。
肺に侵食する煙が、生の実感を与えた。
「オレの名は――日之影凛太郎」
その回答に、巫女は不敵に微笑んだ――。
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第四十一話:マイバッグは棚の上
リンに続いて、ユキも出ていってから一週間が経過した。
何故か母の中では私がユキちゃんにパワハラしたからと、勝手にストーリーを作られては愚痴愚痴といつもの小言が続いた。
琴葉もあれから体調も崩した。
恐らく心労だろう。色々あった。
父は結局、一言も言わなかった。
もうそろそろゴールデンウィーク。
梅雨が明けたら、夏が来る。
だと言うのに、琴葉は夏日に備えてマフラーを編んでいた。
あの時あげたプレゼントは喜んでくれた。
本人の意思でなく、あんな形で巻いてくれないのは寂しいなと、なんとなく編んでいた。
帰ってこないかもしれない。
それでも、なんとなくキレイにしたかった。
(私、なんとなくばっかりだな……)
疲れが取れない。
編み物もあまり進まなかったが、部屋に籠もるとまた眠ってしまうだけで、それに抗いたかった。
リビングで作業を続ける琴葉だったが、階段を上がる足音に顔を上げた。
買い出しに行ったばかりの父が戻ってきたのかと思ったその時、
"見覚えのある男"が入ってきた。
「状況は?」
「…………」
ポロリと、膝の上に置いてあった毛糸が床に転がった。
「琴葉よ。ここ数日、何が起こったのかを教えてほしい」
「…………」
反応がなかった琴葉に対し、男は、ふう、とため息を吐く。
胸ポケットからタバコを取り出すと、毒を吐いて踵を返した。
「チッ。Fランの1.9め」
「ちょ……――ちょっと待ってください!」
二週間ほど姿を見せなかった男は何も変化はなく、琴葉のよく知る田中リンだ。
「はあ……ボーダーフリーというのはな……ふむ。説明しようと思ったが、言語化が難しいな。いや、問題は1.9の方か……?」
「あの、待ってください! あ、色々待ってください。その件も抗議したいんですが……」
どこから話すべきか、琴葉も困惑していた。
その様子を見て、ああ、と凛太郎は察すると、ギコチナイ笑みを作り出した。
「手編みのマフラーか。琴葉は家庭的で凄く魅力的な女性だな」
「いえ、お世辞を求めてるわけじゃなくて……ああ、この人本当に……私の日本語じゃ上手く説明できない……!」
「まあ所詮Fランか……」
――てめえマジでいい加減にしろよ。
「あの……リンさん?」
体調面を差し引いても、いつもの愛想笑いがこれほど苦労する相手は他にいない。
「今まで何してたんですか……?」
「ふむ。言葉を返そう。そういう琴葉はこの大学生活、4年まで何をしていたんだ?」
「……………本気で怒りますよ」
「おやおや」
やれやれと言った感じで、凛太郎はため息を吐いた。
「自己の弱点や認めたくない事実を指摘されると、自我を守るために感情的反応を起こす」
凛太郎はいくつか指を折る。
「フロイトが提唱した防衛機制。認知的不協和もこれに当てはまるか。自我脅威反応……幾つかあるが、まあわからんか」
「あの……何の話ですか?」
「FランはFランと事実を言われると怒る話だろう?」
「…………」
こいつマジで、マジでさ……。
今までとは別の負の感情が湧き上がると、それを察したリンは難しい顔を見せた。
「そうか……確かに、Fランには難しいか……」
こいつぶん殴ったらこっちが捕まるって、この国の法はおかしくないですか?
「ユキはどうした?」
「そうですよ! ユキちゃん、リンさんの事ずっと心配になって探していて、もう一週間も帰ってきてないんですよ!」
糾弾するが、この男はふむ、といつもの様子で顎に手を伸ばすのみ。
「オレが姿を消して何日だ?」
「……?」
何を言っているのかよくわからなかった。
自分で出ていったのに、なんでその期間を聞くのか。
「二週間ですよ……その間もユキちゃんずっと探して、一週間経って帰ってきてません」
なるほど、とリンは頷いた。
「琴葉よ。体調はどうだ?」
「あの、リンさんのアイスブレイクってどうなってるんですか?」
確かに崩しているが、心労の原因は誰のせいかわかっているのだろうか?
だと言うのに、目の前の男はと言えば「1.9か」と言わんばかりに呆れるような表情を見せる。
「リンさん――いい加減にしてください」
勢い余って両肩を掴むが、立ち眩みで頭が重く感じた。
「う……」
膝が折れて倒れそうになる琴葉を、凛太郎は抱きかかえるように支えた。
「最優先事項は想定通りではあるか」
「何を、言って……」
凛太郎は琴葉の様子を眺めながらも、"先"の想定を考えていた。
「準備しろ。ユキを探しに行く」
「……リンさん、あの、すみません。今私、体調が良くなくて……」
貧血でよりかかる先に、異性を感じた。
「ダメだ。今すぐ支度をしろ」
だと言うのに、何があっても恋愛に発展しないのはこの男の特性か。
「タクシーは借りたくない。店主から車を借りる。鍵はどこにある?」
「……」
貧血が酷い。
意識が遠のくような、ぼーっとする感覚が強い。
凛太郎は舌打ちをすると、琴葉をお姫様抱っこして持ち上げる。
「え……リンさん……?」
「ぐ……」
しかしすぐに降ろすと、舌打ちが聞こえた。
「いや……流石に重いな。やっぱり歩け」
(こいつマジで……!)
たまには嫌味の一つでも言ってやろうと気力を振り絞るが、今日は特に体調がよろしくない。
「オレの記憶が確かなら"加護"とやらが必要だろう」
「カゴ……? 買い物カゴ、えっと……マイバッグなら、いつもの棚に……」
(1.9の猿め――)
まあ……今日のところは体調不良ということで、多めに見てやるか。




