第三十六話:ちょっとしたトラブル
初めて兄の布団を敷いた。
本人はなんでもいいと口走るが、決まってシーツにはシワ一つなく、枕の位置もきちんと整えるのが日課だった。
たまに風呂に入った時、敷いてもらったことがある。
その時だけはリンを真似ようと心に決めるが、ホテルのベッドメイキングみたいにちゃんとやったことはない。
つい面倒でサボってしまう。
ただ、今日の仕事振りなら「ユキにしては上出来だ」と、彼なりの言葉で褒めてくれるはずだ。
睡魔がなかったので天笠花の能力で冬眠をした昨夜。
翌日はアラームの音で目が覚める。
「……」
頭はボーッとする。
この時間、リンはいない。
始業時間前に、既にリンは外の掃き掃除をしている。
「……?」
珍しくリンの布団が敷きっぱなしだ。
初めこそ、三つ折りにした後、ユキの分と一緒に押入れに入れてくれたが、今となっては自分の分は自分で片付けろと言わんばかりに、コチラに対して躾を――
「――ッ!?」
弾かれたように布団を蹴ると、窓の外を確認する。
――いない。
ユキはドアを開けると、全速力で一階のホールに向かう!
どたどたと階段を転げるように駆け抜けた先は静寂で、誰も居なかった。
「……」
無音が流れる。
胸の中に、良くない水のような不安感が染み込む。
裏手に回る。
ここは喫煙所で、兄がよく時間を潰す場所だが――そこにもいない。
「リン……!」
動悸が速くなる。
「リーーーーーーーン!」
大きな声は周囲に広がり、そのまま消えていく。
再び無音が流れると、心臓が跳ねた。
「ウソ……」
愛想を尽かされた。
生産性の低いだらしない妹は必要ないと、ユキを置いて一人で本土に行った。
「……」
もしそうなら……とても悲しいことだが、
今はそうであってくれとさえ思う。
リンが見限るなら、直接言うはずだ。
それは「使えない」かもしれないし「要らない」かもしれない。
道徳が欠如している彼は、酷い言葉を躊躇いなく使う。
でも実際に無言で飛んだなら……それはそれで、給料日後とか、レジの金を全部盗むとか、そういう効率を求めたタイミングだと思う。
リンは、3人目に拘束された。
頭を過ぎる。
拘束、或いは――ッ!
「……ッ」
良くない考えを振り払う。
それはない。
根拠はないが、そんなことはないはずだ。
だけど、相手は3人目で間違いないはず。
そうなるとリンがユキの名を出さない場合、面識のないユキは3人目に辿り着くことは出来ない。
3人目も、ユキの存在を知らなければ探し出さない。
「リン……!」
どうしよう。
ワタシ、どうしたらいい?
◇
『何も出来ないと思うけど……少しはユキちゃんの力になるね』
強張った顔をしたユキに、安心してほしかった。
自分に出来ることなんて、たかが知れてる。
それでも年上のお姉さんとして、子供が落ち込んでいるのは見たくない。
そんな、我ながら優しい気持ちの代償。
翌日、家族内の大喧嘩に発展していた。
「あんたが陰キャムーブするから! リン君が愛想尽かしたんでしょ! お母さんずーーーーっと言ってるよ! あんたのその『察して』っていう乙女ムーブやめなさい。可愛いと思ってるの!?」
「あああああああ、もうウルサイお母さん、黙って!」
「だ・ま・ら・な・い! あんたは本当にむっっかしから、いーーーーっつもそう! 頭カラッぽなのにずーーーっと鏡ばっかり見て。誰もあんたみたいな陰は見てないの!」
「インって言わないで!」
「料理の盛り付けもまとも出来ないくせに、自分の顔面ばっかり盛り付けしてあーーーーー、みっともないみっともない。そりゃあんな良い彼氏すぐに逃げるよねえ」
「ウルサイ! 私もう大人なんだから黙ってて!」
「いーーーーーーーーん!」
「ああああああああああ! もう!!!」
開店前の仕込み。
いつもリンが働く時間になっても現れず、結局就業時間になってもリンは大三元に帰って来なかった。
琴葉の母親もまだ本調子ではないということで、琴葉本人も顔を合わせたらコレだ。
「……琴葉お母さん、ごめんね。うちのお兄ちゃんが」
「いいのいいのいいの! ユキちゃんいいの! どうせコイツがまたお姫様ムーブして愛想尽かされたのよ!」
「お母さん黙って!」
"リンは喧嘩して出ていった"
カップル設定を活かして急遽作ったシナリオだ。
定刻通りに戻らなかった時、気を遣った琴葉はそう言い繕った。
「海老剥きやるね。てんちょーさん」
「おう」
店主は――何も言わない。
田中リンは痴話喧嘩などしないし、仮に喧嘩があったとしても家を出るわけがない。
何より、あの男が仕事に遅れることだけは絶対にないと、
店主は誰よりも知っている。
「水で解凍したら、殻はこっちのボウルに入れろ。スープの出汁に使う」
「うん!」
それでも、店主は何も言わなかった。
リンはぶっきらぼうではあるが、返信は早い。
基本一分以内で、仕事中であってもすぐに折り返す。
そのほとんどは『後ほど確認する』と意味をなさないが、それでも反応は早い。
昨夜から、一切の連絡が取れない。
あまつさえ、仕事時間にも遅れている。
リンは、トラブルだ。
(うん。リンはきっと、"ちょっとした"トラブルに巻き込まれたんだ)
この日、自分の鼻呼吸がやけに耳障りに感じた。




