第二十五話:化物
昨日のことが頭から離れない。
稲村琴葉はベッドから起き上がると、パジャマを脱いでパンツを下ろした。
生まれたままの姿、裸体で鏡の前に立つが、そこには傷一つない自分の身体があった。
全て夢だと言われても、納得するだろう。
むしろ、夢であってくれと願う気持ちの方が強い。
人が、死んだ。
そうでなくては殺されていただろう。
ユキが普通の少女なら、自分も含めて殺されていただろう。
苦手な男性だった。
嫌悪感を抱く男性で、生理的に受け付けない。
――それでも人が死んだのだ。
天笠花に、食われた。
イヤな人だった。
関わらないでほしかったし、現に刃物で刺されて殺された。
それでも、スカッとしない。
殺したのは自分ではない。
それなのになんとも言えない罪悪感が、胸の奥にこびりついている。
朝八時。
窓の外にはほうきで店外を清掃する青年の姿がある。
朝の光の中で、その動作だけがいつも通りだった。
もし夢だとしたら、どこまでが夢なのだろうか。
部屋から出たくない。
出たくないが、引き籠もっていてもなにも始まらない。
なんとなく、リンを手伝おうと部屋を出たところで、リビングに座る長髪の子供と会う。
朝の光がカーテン越しに差し込み、テレビの音もなく、ただスマホの動画音声だけが流れていた。
「あ……」
天笠花とか名乗っていた、可愛らしい小さな化物がスマホを触っている。
「おはよう、ございます……」
絞るように声を漏らすが、
「あ、琴葉さん、おはよー!」
田中リンの妹であるユキは、妹の挨拶を琴葉に向けた。
あんなことがあった翌日だ。
それなのに、少女の笑みに釣られて顔が綻んでしまう。
「何見てるの?」
「いぬー!」
言う通り、そこには可愛らしいペットの動画が流れていた。
無邪気そうに熱中する彼女は、今まで知る田中ユキそのものだった。
まるで自分は変な夢を見ていたんだと、そんな感覚にすら思う。
昨日の痕跡は、何一つない。
「……ユキちゃん、ちょっとお話できるかな?」
「うん? いいよー」
妹のユキは、年相応の笑顔で微笑む。
「あまが――」
強制的に、口が閉じられた。
(――ッ!?)
自分の意思とは関係なく、唇が縫い合わされたような、感覚。
長髪の小さな少女は親指と、人差し指と中指をくっつけると、"ユキの顔"を少しだけ覗かせた。
「――琴葉お姉ちゃん」
少しだけ、低い声。
普段使わないお姉ちゃん呼び。
長髪の少女は、スマホ画面から視線を離さず小さく呟く。
「ワタシ、あんまり難しいことわかんないんだ。でね、そういうのは、リンお兄ちゃんが言うなって言ってた」
「……ッ」
チラリと、初めて琴葉を流し見する。
もういいよね、と目で語りかける。
ここに座るのは、妹の田中ユキだ。
天笠花ではない。
――それを、決して間違えてはいけない。
琴葉はコクリと頷くと、口の筋肉が自由に解かれた。
「今度、散歩した時にいっぱいお喋りしようね♪」
「……はい」
媚びるような笑顔を作ると、満足したようにユキは頷いた。
◇
「リンさん。手伝います」
ん、と琴葉の存在を認識すると、ああ、と頷いた。
「店内の調味料を一度一つにまとめてくれ。容器を一度洗いたい」
はい、と返事をしかけたが、少しだけ踏みとどまる。
「リンさんと少し、一緒に居たいです」
その言葉を投げられた凛太郎はふむ、と頷くと、ああと理解した。
「昨夜のことか」
「……はい」
何がどうなったかわからない。
わからないが、昨日は現実で、天笠花はこの田中リンという男に従っている構造だけは理解できた。
「人は未知に恐怖を覚えるように遺伝子に組み込まれている。故にそのコンフォートゾーンから脱却するべしと、昨今の自己啓発本でも主張されているだろう」
コンフォートゾーンという言葉は知っている。
自分が居る場所が居心地が良いから、新しいチャレンジができないのだと、多分そういう内容だったはず。
昨夜の出来事をその一言で片付けるのはあまりにもおざなりじゃなかろうか?
「容姿が良い琴葉が武器である胸を強調させ男に媚びれば、ああいう事件が発生しても驚きはない。良い教訓になったんじゃないか?」
「あの、リンさん。その言い方やめてください。何もかも間違ってます」
その釈明に凛太郎はなるほどと頷いた。
「フッ。確かに失言だった。琴葉は良い女だ。男は皆琴葉に夢中だ。世のすべての男は琴葉に恋をするだろう」
「いえ、あの……ああ、そうだ、この人日本語通じないんだ……」
無視をして掃除を進めるリン。
裏表があったユキに対して、リンだけは頭の構造が普通とは違うのに未だに慣れない。
「あの……リンさんは、その……今後はどうするつもりですか?」
その質問に凛太郎は琴葉の表情を伺うと、ふむと喉を鳴らす。
「その質問、そっくりそのまま琴葉に返すとしよう」
「え?」
(私? だって私は――)
私は今、ユキちゃんから離れられない身体になった。
生殺与奪を握られた以上、彼女と離れず、その彼女が依存するユキが自分の命を握ると言っても過言ではない。
「メイド服を着てキャピキャピ遊んでいる琴葉だ。ガクチカは大丈夫だろう。GPAはいくつだ? これから四年だろう。就職活動はもう始まっている。卒業までの単位は大丈夫なんだろうな? 海外留学に逃げるのもいいが、今の英語力では……」
「あ、いえ、あの……ちょっと、黙ってください」
頭が混乱する。
何を求めてリンと話にきたんだっけ?
「プラスに考えろ。一命を取り留めた。ユキを言い訳につたない英語力のまま海外に行けなくなった。勉強する時間も増える。実際良い事しかないだろ」
「リンさん……あの、私を低学歴キャラにするのやめてください……」
やれやれ、とつまらなさそうにため息を吐かれた。
「プラスに考えるべきなのは事実だろう。我々は手持ちのカードでベストを尽くす他ない」
我々は。
それがどこまで何を含んでいるのか、その背景を琴葉は決して知ることは出来ない。
「もしやと思うが――」
ここでほうきの手を止めた。
初めて見せる、険しい表情。
「――私はストーカーに殺されるほど異性にモテるんです、と自慢をしに来たのか?」
「違います」
ピシャリと言い放つ。
頭がおかしいのだろうか、この人は。
「では合コンの話か?」
「いえ、あの……」
「……?」
中々口を開かない琴葉に対し、しばらく考えた凛太郎だったが、
「なるほど、理解した」
ようやく彼の中で答えに辿り着いた。
「勉強を教えてもらいたいんだな」
「あ、じゃあ……はい。もうそれで……いいです……」
そういえばこの人が一番化物だった。
「断る」
「……………………………………」
それにしても、とんでもない化物だなあと琴葉は思った。




