第二十話:浅学非才の身
ガラスのキューブに入れられた鼠。
20匹取り寄せた実験体は、増えたり減ったり繰り返している。
ある程度の広さがあり、全員が餌に群がるわけでもないので比較的落ち着いて見える。
特殊なマジックで『028』と書かれた一匹のマウス。
空調の音だけが低く響く中、それは突如ガクンと身体を揺らすと、そのまま倒れた。
ガラスの向こうで、他のマウス達は何事もなかったように動き続けていた。
同胞に関心を持たないマウスだったが、観測者達の反応は違った。
「…………ッ」
その光景に、三人の研究者は息を飲んだ。
唯一その三人のリアクションを眺めた男は、小さく頷いた。
「その反応は正しい。オレも昨夜初めて実験に成功した時は驚いた」
一人遠い場所でコーヒーをすすったのは、ただのポスドク研究員。
「……おい。これは確認だが俺達に取り入るための細工ではないんだな?」
「藤堂よ。キミに取り入ってなんの利益がある?」
「……」
もし本当に一人で成功したなら、この論文を学会に持っていけば富と名誉が――
――などと属人的な事を藤堂真の頭を過ったが、この男は特別。
地位や名誉に興味がないただの変態だ。
「こういうのは発表する場合、貢献ポイントなるものがあるのだろう。よくわからないが、その辺りの差配は時田研究部長に任せる」
名前を呼ばれた研究部長も、これが本当に成功したのかとただ呆然と眺めていた。
「再現性は40%を切る。まだまだ低い。実は025番から順番に流したが、ご覧の通りだ。我々で100%に引き上げたい。それと距離や、抗体の有無も探す必要がある。課題は山積みだ」
ようやく時田研究部長が、うん、うんと小さく頷いた。
「すごいな……やった! いや、これは本当に凄いぞ! ノーベル賞ものだ!」
「ちょっと待ってください! これ、本当に公に公開するんですか!? こんなの……!」
静止した宮本准教授はおかしな事は言っていない。
一見すると、じゃあなんのために研究を重ねたのかと言いたくなるが、これは予想以上の成果が出てしまった。
特定の遺伝子情報を手に入れれば、その被検体に触れずに個別に殺害できる。
それはどんな生物兵器よりも強力で、
もしそんな神の力を手に入れたら――
「ふふ、ノーベル賞か。アルフレッド・ノーベルも晩年こんな気持ちだったんだろうな」
「藤堂! こんなのは神の所業で――」
「――逸るな」
目の下にクマを残したまま、男は胸元のポケットからラッキーストライクを取り出した。
「ノーベル賞も神の話も早すぎる。オレ達は未だ浅学非才の身。これを完璧なものにして初めて世界を憂うことができる」
時田研究部長は固まった笑みのまま、こちらにすり寄った。
「どうしたらいい? なにがしたい? 私は今、全面的にキミを応援する」
「部長!」
これは研究者の性だ。
国家や命などの道徳、或いは名誉や手柄。
何よりも重要なものでさえ、目の前のパズルに夢中になる。
「"事情を知っている"生物学の研究者と、合同研究を開始したい」
ああ、と時田研究部長は微笑んだ。
もちろんだとも、と、これから先の言葉を言う前に了承の未来が見えた。
「これより、人体実験も併用したい」
◇
目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいた。
そこにはこちらを観測する目とちょうど一致する。
「……」
ユキは既に目をあけて、黙ってこっちを見ていた。
「……なんだ?」
「すごいイヤラシイ顔してた」
チッ、と舌打ちをすると、それでも笑みが溢れた。
夢。
思えばこれまでの生活、ずっと働いた後は泥のように眠っていた。
ノンレム睡眠が足りていないのだろう。
疲労回復が追いついていない。
「エッチな夢?」
「そういう事に口出しをするなら、まずは自分の洋服ぐらい自分で片付けるんだな」
起き上がると、布団をすぐに折っていく。
やはりというか、あまり身体は回復していないように感じた。
ユキも倣って布団を畳んでいく。小さな手が、不格好ながらも几帳面に角を揃えていた。
時計を確認すると、今は8時前。
「琴葉が起きているか確認しろ。もう起きてるなら掃除機をかける」
「さっきトイレで会ったよ」
「……ではなぜ、妹はまた二度寝をしたんだ?」
「リンのお兄ちゃんの寝顔が見たかった」
フッ、と笑った。
二度寝など生産性の低いことを、
と罵りたかったが、当の本人がこれでは沽券に関わる。
飲み込んだ言葉の代わりに何を言おうかと模索していると、
「せんがくひさいって、誰?」
「フッ。おやおやおやおや」
小学生の長い髪をくしゃくしゃと撫でた。
「それがわからないユキは、まさに浅学非才だな」




