第十七話:英語も日本語も難しい
稲村琴葉は今日も自室で過ごした。
窓際には小さなドライフラワーが飾られ、クローゼットの扉には自分で切り抜いた雑誌のページが何枚か貼られていた。
ベッドカバーは淡いベージュで、枕元には読みかけの文庫本が一冊。
よくある女の子の部屋だと、自分でも思う。
その女の子らしさを助長するのが、手編みのマフラーだ。
整頓された机の上には英語のテキストが積まれ、その隣に毛糸玉と棒針が並んでいる。
リンからユキにプレゼントしたのなら、ダシに使われただけの自分も何かをと画策したのがこのマフラーだった。
パソコンで英語のリスニング動画を流して勉強しつつ、机の上に置かれる毛糸玉を棒針で編んでいく。
英語の雑音を聞いても、脳には音の塊でしか入って来ない。
一度動画を止める。
単語を文字で読み、確認して耳に入れるとようやく少しだけ聞こえた。
『No matter what I did, Ken wouldn't do what I told him』
うんうん、と確かにこれらの単語を口にしているのがようやく耳で聞き取れた。
「無い案件、何した……ケンは、だった、じゃない。ドゥワット、私、彼に言った……」
英語というのは不思議なもので、単語の意味が朧げにわかると、それらの組み合わせで意味の推測が出来る。
小さく頷くと、再生ボタンを押す。
三度目の英文が流れ、翻訳が出る前に自分の読解力を確認する。
「案件が何もなかった私。私が彼に言ったことをケンはしなかっただろう」
『私が何をしても、ケンは私の言うことを聞いてくれませんでした』
「英語は難しいな」
案件はどこに行ったのか、手前のノートにmatterの単語を書き出す。
母が腰を痛めて以降、なるべく店の手伝いを優先するようにした。
それは全然構わない。
先日ビデオ通話した時は、本土の実家で療養中の母も元気そうな様子だった。
ただ、学業が疎かになっていたのは事実だ。
今ではアルバイトも二名加わり、平日はいつ休んでも負担にならないのはとても有り難い。
勉強をする時間が必要。
ユキちゃんにプレゼントしようと思っていたのも本当だ。
「うん、そう……元から、私はバイトを減らす予定だった」
これは本来の予定された動き。
働きすぎて学業が疎かになったから、今それを取り返しているだけ。
予定通り。予定通りの行動なのだ。
――決して、メイド姿を見られた醜態を引きずっているわけではない!
同じ家に同居する以上、接点が皆無になったわけではない。
廊下ですれ違う時や、家を出る時など視線を合わせることもある。
その時の田中リンの目は明らかに変わった。
以前、コチラが挨拶をすると気付いたように笑顔を作り挨拶を返してくれた。
今はどうかと言うと、目を見てくる。
哀れみの目を向けるとか、目を逸らすとか、申し訳なさそうにするとか、そういう気まずさの類じゃない。
"観察されている"
まるで私が、何かの拍子でメイドの呪文を唱えるのではないかと期待して――。
コンコン。
「琴葉。オレだ。今少しいいか?」
「――ッ!?」
訪ねて来たのは今まさに自分の失態を鑑みていた相手、田中リンだ。
「あ、あの……今はちょっと、開けないでください……」
「わかった。一階の喫煙所で待っている」
扉越しに、有無を言わさず要件を伝えると階段を降りる軋む音が聞こえてきた。
「……」
(どうしよう……)
避けていたのを、気に病んだんだろうか?
自分の行いを鑑みれば出てくる思考に、別の経験則がそれを否定する。
彼は人の心を持たない田中リンだ。
売上向上のため、あの呪文を大三元でやって単価を上げたいとか、
「…………ッ!」
考えただけでもゾッとした。
(どうしよう、なんて言おう……でも、待ってるって言うし……)
作りかけのマフラーを手元に置くと、琴葉はパジャマの上からどてらを羽織り、下に降りていった。
数年ぶりに訪れた裏庭。
記憶の中のそこは、腰まで伸びた雑草と、何年も放置されたテレビや冷蔵庫が鎮座する、見て見ぬふりをしてきた場所だった。
今はどうかと言えば、雑草は根まで抜かれ、粗大ゴミは跡形もない。
コンクリートが剥き出しになった地面は掃き清められ、隅には携帯灰皿が一つだけ置かれていた。
父は「そのうちやる」と数年前から言い続けていた場所だ。
田中リンは星を眺めていた。
声をかけようとして、少しだけ止まった。
やや筋肉質な肩のラインが、同学年の男子とは少し違う。
月の光が照らすその横顔に、少しだけ魅入られた。
「来たか。琴葉。呼び出してすまなかった」
「大丈夫ですよ」
笑顔で答える。
この人はなんというか、言い方が独特な人だ。
言葉や単語のチョイスもそうだが、不用意に相手の名前を口にするのをやめてほしい。
少しドキッとしてしまう。
普通の同学年の男子が皆子供に見えるような、でもそれをカッコつけているわけではなく、自分の優位性を誇示したい感じもない。
下心のない経験則を感じさせ――。
「合コンがしたい」
「……」
固まった。
頭の中にあったごちゃごちゃした雑念が、一瞬で吹き飛んだ。
そしてコチラを観察するいつもの目線で、凛太郎は「ふむ」と頷く。
「合同コンパがしたい」
「……」
このまま固まり続ける。
琴葉は動くことが出来ず、表情を変えることすら出来ない。
何故か困った顔を見せたのは凛太郎。
はあ、と本人を眼の前にため息をつくと、やれやれと言った感じで首裏に手を当てるポーズを取った。
「出会いを求めた複数人の男女が集い、会食をしたい」
「…………」
こういう時、どういうリアクションをするべきなのか。
何もかもが想定外の発言に、全く反応が出来ない。
「沈黙は了承と捉えて良いのか?」
「ダメです」
ピシャリと拒絶するも、ノーダメージで「ふむ」と頷く。
「日本語は難しいな」
そうですね、と心の中で呟いた。
「しかしそうだな、意図がちゃんと伝わっているか……合コン、合コン……お!」
何かに気付いたように笑みを浮かべた。
「琴葉よ。コンパがしたい!」
それはさっき聞いた。何に気付いたんだお前は。
田中リンの見たことがない笑みに、少しだけ表情が引っ張られた。
「あの……いきなり、どうしたんですか?」
「オスがメスを求めるのはいきなりなわけがないだろう。個人差はあるが、主に男子中学生から女性に性の意識が芽生える。ゆえにそれを思春期と呼ぶのだろう」
「いえ、あの……どうしよう。日本語は難しい」
「そうだな」
違うのだよ、同意している結果は同じでも、その仮定が全く噛み合っていないのだよ。
「琴葉は綺麗だ。長身でいてスレンダー。知的さも兼ね備えており、何より顔が良い。笑顔も魅力だ。さらには声も高くて女らしいし、さらなる希少性を高める要素として胸もある」
「あの……リンさん? もしかして、その言葉で私が喜ぶと思っているんですか?」
ドン引きしながら問うが、田中リンは首を傾げた。
「何を言う? 客観視しただけの、ただの事実だろう」
「はあ……」
本当にこの人は、リアクションに困る。
「底辺は底辺と付き合い、富豪は富豪と付き合う。ホモフィリー……少し違うが、今ではエコーチェンバーの方が一般的か。人は似た価値観を持つ情報を摂取し、同類で交流する傾向がある。四字熟語で使われる『類は友を呼ぶ』と言うやつだ」
自分で発した言葉に、凛太郎は確信して頷く。
「つまり、琴葉が行う合コンはそれほどまでにレベルが高いという事が必然になる」
「どうしよう。私、今までリンさんの事がわからなかったんですが、よりわからなくなりました」
困惑する琴葉に笑顔で応える。
安心しろ、と自信満々でリンは頷いた。
「作法は弁えている」
そう言うと、リンは財布を取り出して一万円札を取り出した。
「……おやおやおや、すまない。足りないか」
受け取らないコチラの反応に、困ったように考える。
しばらく考えていたが、正解がわからないと判断したリンは再びこちらの目を捉えた。
「オレは浅学非才の身。申し訳ないがこういう俗世の相場に疎い。いくら必要なんだ? オレの財布で足りない場合、ユキにも出させる」
「リンさん、あの……道徳って言葉、知っていますか?」
「以前妹にも言われた事があるな。妹は出来損ないだからな。オレのような作法がわからないのだろう」
合コンセッティングしろと言う要求にお金をきちんと包むのが道徳らしい。
そうか、文化というか、こういう作法も難しい。
「さて、一番重要なオレの好みのタイプを伝えよう」
よく聞け、そしてメモも取れと念を押す。
「まずロングヘアーだ。髪は腰、もしくはお尻まで伸びる長髪だ。色は絶対に黒。黒以外の女は呼ぶな。身長は165cm。それ以上も未満でもダメだ。身長誤差は上下3cmとする。目は吊り目だ。垂れ目の女はダメだ」
思わず自分の目元に手が触れた。
「私垂れ目です」
「垂れ目の女性はおしとやかで素晴らしい。母性に満ちている」
怖いよこの人。
「もう一度言う。ロングヘアーだ。腰よりも伸びた長髪だ。色は絶対に黒。身長は165cm。吊り目。ああ、後はデブはダメだ。言うまでもないが、日本人だぞ。ハーフもダメだ」
あと他に何か要素はあったか、凛太郎は考えたが、これを聞かされる相手の身にもなってほしい。
「あの……まず、ですね。そんなにストライクゾーンを狭められては恋人はできないんじゃないですか?」
「そんなことはない。仮にその女に彼氏が居ても配偶者が居てもオレは構わない。性格もどうでもいい。タトゥーや前科など反社会要素があっても構わん。家庭環境や学歴も問わん」
どうしよう、道徳ってどうやって教えればいいんだろう……。
同じ日本人で、言語は日本語なのに全く会話が成立しない。
言葉に窮する琴葉を観察するリンは、ある推察をする。
「オレは筋肉質で若くて顔もいいはずだが、ダメなのか?」
そうじゃない。
そうではないと頭を悩ます琴葉のリアクションを見て、田中リンは有力な仮説を導き出す。
「ああ、そうか。今の子は金髪にしたりピアスをした方がモテるのか? そういえば今の時代男性も化粧をすると耳に挟んだことがある……なるほどなるほど」
「ああ、日本語難しい……!」




