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第8話:情報の死角

 議員会館の廊下は乾いたワックスの匂いを放っていた。


 扉の名札は〈橘事務所〉。来客用の椅子が二脚、互いに正対しない角度で置かれている。壁のカレンダーは、今日の日付にのみ二重の丸が記されている。


 インターホンを押すと、ドアスコープの影が一瞬揺れた後、若い男性秘書が現れた。グレーのネクタイ、結び目が固い。


「週刊時潮の高瀬です。体調の件、確認に参りました」


「健康上の理由で当面の公務を控える――以外は、現時点でお出しできる情報はございません」


 定型的な音色だった。高瀬は頷き、名刺を差し出す。秘書はそれを受け取りながら、背後に視線を走らせた。事務所内の空気の動きは視認できない。音も聞こえない。


「診断書は、出ていませんか」


「医療機関の判断を尊重しております」


 「ない」とも「ある」とも言わない言い回しだった。高瀬は、メモ帳の左端に小さく矢印だけ引いた。


「最近のご予定で、外資の方との面談はありましたか」


「スケジュールはすべて公開しております」


 公開ページに載らない予定の有無を尋ねているのだが、回答は常にここに戻る。


「会食の名簿については」


「個人情報ですので」


 矢印の先に「個人情報」と書き足し、四角で囲む。業務で必要な線だけを、必要な分だけ引く。感情は入れない。


 秘書がわずかに身体をずらした隙間から、デスクの上が一瞬見えた。薄い青のブリーフィング紙が、他の白い紙に紛れている。角にFのロゴ。右上には小さな付箋が貼ってあり、手書きで「骨子」と記されていた。


 高瀬は視線を戻す。


「先生のご快復の見込みは」


「静養に専念されます」


 言葉の角が丸い。削れた角は、どこへ行くのか。


「医師名を伺えますか」


「差し控えます」


 秘書の指先が、開いたままの引き出しの縁を軽く撫でた。中にはクリアファイルが詰まっている。表紙に「ブリーフィング」「面談」のラベル。

 背後の複合機が一度だけ小さく駆動音を立て、停止した。印刷物は出てこない。シュレッダー袋の口だけが、ほんの少し広がっている。


「面談室の予約、午前の三十分が黒塗りでした。入られたのはどちらですか」


「本日のご予定はすべてキャンセルしております」


 キャンセル済みの予定は、予定であることを否定しない。

 高瀬はメモに一文。

 〈キャンセル=存在の肯定〉。


 ドアの内側で、紙が一枚だけめくられる音がした。高瀬はわざと視線を落とし、靴の先で敷居の金属の擦り減りを眺めた。多くの人が出入りした痕跡である。


「失礼ですが、昨日の夜、先生はどちらに」


「公務外につき、お答えできません」


「会食が外資の方々と、という報道が」


「確認できておりません」


 秘書は瞬きの間隔を整え、言葉の温度を一定に保っている。よく訓練された返答だった。訓練されている、という事実だけで十分な材料になることがある。


「事務的な質問に切り替えます。今後の連絡窓口は」


「メールでお願いします。書面でのご依頼はFAXも受け付けます」


「ありがとうございます」


 礼を言いながら、視界の端で給湯スペースのゴミ箱を捉える。上に重なる紙コップ、脇に折れた付箋の切れ端。青い。先ほど見た付箋と同じ色味だ。


「念のため、ブリーフィングのタイトルだけ確認させてください。報道各社で表記を統一したく」


 高瀬は自然な口調で、手帳を開く。秘書の肩越しに、青紙の表題がちらりと見えた。

 高瀬の視界が、その文字列を捉えた。


〈特区プロジェクト F社提案 契約骨子〉


 文字の並びを、そのまま脳に写し取る。写真は撮らない。必要なのは、並びだけだ。


 秘書がドアをさらに狭くした。会話の終わりのサインである。


「先生のご静養に関するご配慮、お願いします」


「承知しました。お大事に」


 名刺の交換だけを済ませ、廊下に戻る。歩き出しながら、手帳の余白に走り書きする。

 〈F社—特区骨子〉。

 〈診断書:未提示〉。

 インクが乾く前にページを閉じ、表紙を親指で押さえた。


 議員会館のエレベーターホールにある面談室の空き状況表は、午前の黒塗りブロックがまだ黒いままだった。更新の印もない。

 掲示板には来館者バッジの返却ボックス。透明な容器の中に、外国語表記の仮名札が二枚、裏向きで沈んでいる。受付の職員が「片付けますね」と柔らかく声を掛け、ボックスごと奥へ運んだ。


 高瀬は礼を言い、壁の時計で時刻を確認する。きっちり正時。先ほど事務所で聞いた複合機の短い音と、秒針の位置がなぜか頭の中で重なった。


 クラブ階でドアが開く。モニターは、病院の裏口の映像に切り替わっていた。黒いワンボックスカーがシャッターの奥へ消える瞬間を、各局が秒差で流している。

 高瀬は自席に戻る前に、掲示板の会食場リストに目をやる。空欄だった一行に、午前の時刻で小さな書き込みが増えていた。字は整っていて、事務職の手のようだった。店名はない。会議室番号だけが記されている。

 誰かが、予定を過去形に変えた。あるいは、過去形の予定を今書いた。


 デスクに腰を下ろし、速報用の文書に三行だけ入力する。

 〈――橘英徳、入院・静養(健康理由)〉。

 〈――事務所:診断書は「医療機関の判断」/具体名示さず〉。

 〈――F社「特区プロジェクト契約骨子」ブリーフィング紙を確認タイトルのみ〉。

 指を止める。呼吸を整える。ここから先は、書きすぎない方が良い。仕事だから。


 送信前に、もう一度だけ窓の外を見る。ビルの谷間に、曇った光。


――この世をば、わが世とぞ思ふ。


 詩は不要である。必要なのは、時刻と名前と部屋番号だ。

 高瀬は文書を保存し、チャットを閉じた。次は医師である。診断書の実在を確かめる。段取りを2つ、3つ並べる。

 仕事は、順番だ。順番が、影を浮かび上がらせる。

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