第7話:不自然な空白
国会記者クラブのモニターが、ほぼ同時に色温度を変化させた。
〈速報 与党重鎮・橘英徳 入院 当面の職務停止〉
テロップの白が、古い蛍光灯の明かりに浮かぶ。廊下側のドアが開き、誰かが駆け込んで閉める音が二度続いた。
「おい、昨日までピンピンだっただろ」
食堂帰りの記者が紙コップのコーヒーを傾けながら述べ、別社の若手が応じる。
「本当に健康理由かね」
失笑がいくつか漏れ、再びキーボードの音に戻る。
高瀬悠一は、掲示板の端に視線を滑らせた。会食予定表の空欄は、まだ空白のままだった。紙の角には昨夜の指の脂が残り、蛍光灯がそこだけ鈍く反射する。
スマートフォンのメモを開く。四角で囲っておいた欄が目に入る。
〈橘—会食—外資/人事?〉。
記したのは自身だが、熱は込めなかった。仕事のために書いた。必要な線を、必要な分だけ引いておくために。
クラブ事務方が、ささやき声で伝達する。
「会館の部屋、閉めます。出入りは秘書課経由で」
出入り名簿に押される丸い印が、次々に増えていく。外国語の綴りが混ざるたび、受付の女性が小さく眉を寄せた。
高瀬は受付台の隅に置かれた面談室の空き状況表を眺め、時刻の空白を見つける。午前、三十分のブロックが黒塗りされている。誰かの動きが、そこだけ視認できない。
テレビが別カメラに切り替わり、病院の正面玄関が映った。広報担当らしいスーツの人物が「詳細は後ほど」を繰り返す。
同僚が背後から声を落とした。
「うちの経済面、今日、神園建設のタイアップで進めるから、政治は荒らすなと」
「了解」
短い返答で足りる。不足なものを増やすと、仕事の進行が遅れる。ここでは、そのような計算が優先される。
高瀬は食堂へ降りる階段を半分だけ下り、引き返した。廊下の曲がり角にある給水機で紙コップを満たし、冷たい水を口の中で転がす。
――この世をば、わが世とぞ思ふ。
言葉が、一度だけ脳裏に浮かんで消えた。
橘事務所の前は、すでに小さな行列ができていた。高瀬は最後尾に付く。ドアが開くたび、同じ定型文が漏れる。
「先生はご静養に入られます。詳細は医療機関の判断で」
順番が来た。名刺を提示し、必要最低限の敬語を並べる。内ポケットから診断書の写しを出しかけた秘書が、何かを思い直したかのように紙を伏せた。
「正式な書類は、まだでして」
「入院先は」
「差し控えます」
会話は、壁のような構造をしている。押せば押しただけ、押し返される。
引き下がり際、デスクの端に置かれたブリーフィング資料の角に、外国資本の社名の頭文字が覗いた。F社。紙の色が他の資料と異なっている。
秘書の手が一瞬だけ迷い、すぐに資料は引き出しへ消えた。
高瀬は何も言わない。視認したことだけを記憶する。撮影しないことが、今は正しい。撮影すると、足が止まる。
クラブへ戻る途中、ベテランの斎木に肩を叩かれた。
「な、昨日の『飯』は外資だったろ」
「名簿は黒塗りでした」
「黒塗りは肯定だ。――そして、人事が動く。病名の次に動くのは席次だ」
斎木は紙コップの蓋を捻り、捨てた。
「昔も似たような事案があった。誰かが介入するときの匂いだ」
高瀬は頷き、メモに二行だけ書き足した。
〈F社/席次〉。
〈健康→政治〉。
編集部の共用チャットが震えた。
〈政治面の扱いは軽めで。経済は『実務回帰』の特集〉
モニターの映像は、いつの間にか病院裏口へ切り替わっている。黒いワンボックスカーが、ゆっくりとシャッターの奥へ消える。
クラブ奥の複合機が、一拍置いて音を立て始めた。「総務省提出用(案)」の朱印。紙は温かい。印刷の湿りが乾ききる前に、係がトレイを裏返して運び出す。
時間が少しずつ動いている。誰かの手順で。
自席に戻り、下書きファイルを起動する。「速報」という名前のままの文書に、三行だけ入力した。
〈――橘英徳、入院。健康理由〉。
〈――外資との会食経歴、直近で増加〉。
〈――会館面談の黒塗りブロック、午前に一箇所〉。
手は動くが、心は動かない。必要な分だけ、並べる。必要な分だけで良い。
画面の端で、新しい通知。
〈編集部:スポンサー配慮〉
高瀬はウィンドウを閉じ、時計を見る。面談表の空白が、もうすぐ次の時刻に変わる。
席を立つ。橘の部屋にもう一度向かう。廊下のワックスの匂いが、少し強くなった気がした。このような日だけ、空調がよく機能する。
――この世の灯は、月の影。
言葉がもう一度浮かび、今度は胸の中に落ちた。明るいものの裏には、必ず影の手順が存在する。
高瀬はそれを仕事と呼ぶことにして、歩幅を変えずに角を曲がった。




