第6話:透明な仕事
表通りの白い灯りが、角を1つ曲がるだけで鈍い灰色に変わる。コンビニの裏手、空になった段ボールが積まれ、油を吸った地面がしっとりと黒い。
伊藤恭介は足を止めた。歩幅を半分だけ狭め、呼吸を整える。ジャケットの内ポケットに入った封筒が、歩くたびに太腿へ小さく触れる。紙の重さは、現金の重さより軽い。
しかし、使い道が決定している紙は、常に重く感じられる。
背後で靴音が一度だけ鳴り、消えた。
「お疲れさん」
闇から滑るように現れたのは工藤雅彦だった。
肩幅の狭いコート、指の長い手、タバコの匂い。銘柄は、灰皿の縁に常に残る細い灰で記憶している。
工藤は、笑った。目だけは笑わない、いつものやり方で。
「仕事は透明であれ」
伊藤は頷く。
「顔を出すな。痕跡を残すな。結果だけ置いて去れ。――理解できるな」
「はい」
返答は短いほど良い。言葉には輪郭があり、輪郭は掴まれる。掴まれないためには、薄く、少なく。
工藤はジャケットの内側から小さな封筒を取り出し、指先で弾いた。薄い札の音が一度だけ鳴る。
「先週の件、タイミングが良かった。相手の『健康』を心配する声が、こちらの段取りに合致した」
「偶然です」
「偶然を揃えるのが、我々の仕事だ」
タバコの火が橙色に明滅し、工藤の頬に浅い陰影を作り出す。
路地の端、電柱の上に取り付けられた監視カメラが、赤い点を一度だけ瞬いた。直後に、黒いカバーの中で小さくモーターが唸り、レンズが真上を向く。
工藤は視線だけでそれを示した。
「点検中だ」
伊藤はわずかに頷いた。このような「偶然」は、揃う。揃える。
「1つだけ」
工藤が言う。
「あまり目立つなよ」
「目立たないように実行しています」
「目立つ時がある。動きがきれいすぎて跡が残る」
伊藤は回答しない。答えは、作業で示すと決めている。
工藤は煙を吐き、灰を路面に落とした。灰は油の黒に触れ、すぐに形を失った。
「次が来る」
「内容は」
「お前に必要なのは内容ではない。時刻と順序と場所だけだ。指示は、いつもの木札の線で降りる」
木札――薄い木の板に、ごく小さな目印が彫ってあるだけの札。名前も番号もなく、差し出す手によって意味が決定する。
「了解しました」
工藤は一歩退き、封筒を顎で示した。
「それは、学資援助。名義はそうだ。中身の使い道はお前が決める。決め方を、間違えるな」
「間違えません」
「よろしい」
短く言って、彼は踵を返す。靴底が水たまりの薄い膜を切り、路地の奥へ音を連れていく。
伊藤はしばらく立ち尽くし、カメラの赤い点が消えるのを見届けた。
封筒の角を指で正し、内ポケットを押さえる。「透明」という言葉を心の内側で転がす。
視界から消えることと、存在を消すことは、同一ではない。
重要なのは、痕跡の形を事前に決めておくことだった。残す痕跡、消す痕跡、そして――最初から生まれない痕跡。
路地を抜け、表通りに出る。人の流れが押し寄せ、街の音が一度に戻る。バスのブレーキ、信号の電子音、コンビニのチャイム。
ポケットのスマートフォンが震えた。画面には、見慣れた速報が表示されている。
〈橘英徳、入院。当面の公務見送り〉
伊藤は通知を指で消し、足を止めない。
時刻、順序、場所。記憶するのは、それだけだった。
遠くでサイレンが小さく鳴り、すぐに別の音に紛れた。
月は雲に隠れ、どこにも影を落とさない。
伊藤は、雲に隠れた月を一度も見上げることなく、無機質な群衆の中に溶け込んでいった。
彼の歩みは、信号が青に変わるタイミングと一秒の狂いもなく同期していた。




