第5話:偶然の正体
暖簾をくぐると、油の甘い匂いが鼻に定着した。
安くて旨いその店は、今日も満席に近い状況だった。灰皿が不要な時代になっても、テーブルのべたつきは変わらない。
「とりあえず、ビールで」
「俺も」
「俺はレモンサワー」
揚げ物の音が奥で弾け、タッチパネルの注文が無言で台所へ送られる。
「値上げ、また来るらしいぞ」
向かいの同僚が、箸で揚げシュウマイを割る。白い湯気が割れ目から立ち上り、すぐに消えた。
「臨時増刷だってのに、俺の残業は据え置きだ」
別の同僚が笑う。その笑いに怒りは混ざっていない。怒りを混ぜても意味がないことを、全員が理解している。
壁のテレビは音声が消され、字幕だけが早口で流れている。
〈橘英徳、体調不良で公務取りやめ〉
「ね、来てるでしょ、これ」
ゴシップ担当の田嶋が、唐揚げを箸でつまみながら身を乗り出した。
「藤原家って知ってる?1000年の間、裏で動いてるって話。まあ、よくある都市伝説だけどね」
「へえ」
高瀬はサワーに口をつける。炭酸が舌を滑り、味はほとんど残らない。
「この国の偉い奴ら、だいたいどこかで繋がってるって話。藤原って苗字、多いしね。隠れるにはちょうどいい」
「なるほど、実在性の擬態か」
経済担当の木田が笑う。
「で、その秘密結社が、物価も残業も決めてるのか?」
「それは知らない。けれど『誰かが得をする』順番ってあるじゃない。昔から綺麗すぎるのよ。ニュースの立ち上がりが」
「そんなことを考えるのは、庶民サラリーマンの幻想だよな。せめてそうであってほしいみたいな」
高瀬は笑って流す。笑って、忘れる。仕事の机に戻れば、今日の笑いはすべて紙の裏に落ちる。
テレビの画面が料理店の外観に切り替わり、店名の白い文字が黒い看板に浮かぶ。
「ほら、こういうの」
田嶋が画面を顎で示す。
「昨日の夜の店、今朝には特集。準備、早すぎないか?仕組まれてなきゃ、こんなタイミングで放送できないだろ」
田嶋の冗談交じりの言葉が、高瀬の脳内に、朝見た「赤いチェック」の残像を呼び戻した。
「偶然でしょう」
高瀬は言う。
「偶然が揃うと、手口に見える」
「手口、いい言葉だな」
料理が次々と運ばれてくる。ポテトフライ、漬物、店の名物とされる長い串。会話は値上げの話に戻り、安価に酔う方法の共有へと移行する。
レシートを2つ折りにして財布へ差し込む。日付と時刻と店名。これは証拠ではないが、時系列の記録にはなる。そのような習慣だけが、手の中に残っている。
会計を済ませて外に出ると、夜風は生ぬるく、歩道の端にタバコの匂いが薄く残っていた。
高瀬はビルの狭間の空を見上げる。雲の切れ間に、欠けかけた月がわずかに見えた。
――この世をば、わが世とぞ思ふ。
言葉は、広告のコピーのように頭の内側を撫で、すぐに溶解した。自身の世だとか、誰の世だとか、今考慮すべきことではない。明日の段取りを並べる。会食リストの確認。国会の部屋番号。電話をかける順序。
横断歩道で信号を待つ間、ポケットのスマートフォンが震える。通知は、先ほどと同じ文字を繰り返していた。
〈橘英徳、明日の公務も見送り〉
信号が青に変わり、人の帯が動き出す。高瀬もその帯の速度に合わせて歩く。必要な分だけ、働く。必要な分だけ、書く。
居酒屋の看板の灯りが背後で遠ざかり、路地の暗がりが前方に広がった。
そこに何があるのかは、おそらくすぐに判明する。




