第4話:白い善人
区民会館の小ホールは、午後の蛍光灯が白く乾いた光を放っていた。
舞台袖には安価な緑色の幕が吊るされ、折りたたみ椅子が整列し、前列のみが不自然に空いている。演題は〈学びの機会をすべての子へ〉。政治色はどこにも見当たらない。
司会席に立った青年が、時間通りに発声した。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。司会の伊藤恭介です」
抑揚は浅く、聞き取りやすい速度だった。場の空気を過度に高揚も冷却もしない、中庸の温度を保っている。
ネイビーのジャケット、白いシャツに皺はない。高瀬は無意識のうちに、靴のつま先が磨かれていることまで視認していた。
壇上の講師が地域の教育格差について話す間、伊藤は時計を一度も見ることなく段取りを進め、会場の拍手は適切なタイミングでのみ発生した。
一分一秒の狂いも許さない。それは、事前に組まれた「秒単位のプログラム」を正確に再生している機械のようでもあった。
休憩のアナウンス。ロビーに人の波が拡散し、アンケート用紙が回る。高瀬は列を外れて受付机に近づいた。プラスチック製の名札の列に〈民間教育フォーラム〉のロゴ。白地に小さなグリーンの円。
「お名刺、よろしければ」
受付の若いスタッフが差し出した。
「どうも」
それを受け取り、QRコードを読み込む。表示されたのは、余白の多いサイトだった。活動実績、ボランティア募集、金融機関の口座情報。意図的に目に引っかかる要素は配置されていない。
「政治取材の方ですよね」
背後から声がした。伊藤が会釈する。
間近で見ると、彼の目の動きは穏やかだった。
「ええ。『時潮』の高瀬です。教育政策の特集が近くて」
「それはありがたい。私たちは政治を抜きにして、地域の現場をもう少し可視化したいだけなんです」
言葉はどれも角が取れていた。
「近いうち、現場取材をお願いしても?」
「日程、調整します。こちらの窓口に」
受付の共用メールアドレスを指で示す。個人の連絡先は提示しない。これは適切な対応だった。
ロビーの喧騒から一段下がった廊下は、静電気のように乾いていた。
搬入口の方で、茶封筒が手から手へ滑った。宛名は〈学資援助〉。印字の滲み方が、官庁調達の紙に類似している。
官僚たちが好む、厚手で繊維の詰まった質感。それがなぜ、教育ボランティアの現場で、闇から闇へと手渡される必要があるのか。
高瀬は立ち止まらない。レンズは上げない。ここで必要とされるのは「知っている」という自分自身の確認であり、紙の証拠ではない。
舞台袖の時計が休憩終了の時刻を指す。伊藤が短く拍手し、再開を告げた。動きは淀みがなく、丁寧すぎもしない。
プログラムの最後、集合写真の撮影。伊藤は中央に入らず、端で手を下げている。
解散のざわめきの中、伊藤が再度近づいてきた。
「高瀬さん、記事にしていただくとき、子どもたちの顔だけは絶対に写らないようお願いします」
「もちろん。そこはうちも徹底します」
「ありがとうございます」
礼は短く、淀みがない。彼の声には、喉の奥に引っかかるものが1つもないように聞こえた。
会館を出ると、午後の光は白く、歩道に影をつくらない。
高瀬は名刺を手帳に滑り込ませた。白地のカードの角が、紙の中で静かに立っている。
――善意は、温度で測るものではない。
そう考えていたにもかかわらず、先ほどの封筒の紙質だけが指先に残っていた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。ニュースのプッシュ通知。
〈橘英徳、今日も公務取りやめ〉
画面を伏せ、深呼吸を一度。
必要な分だけ、仕事に戻る。
だが、その「必要」の定義が、今この瞬間に書き換わったことを高瀬は自覚していた。




