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第9話:診断の変節

 病院の正面玄関は、朝の光を均等に反射していた。ガラスの自動ドアに映る自身の顔は、情報を持たない表情をしている。

 受付で面会を申し込むと、担当者が控えめに首を傾げた。


「お名前……? あ、先生は本日、ご入院の手続きのみでして。対応は広報窓口になります」


 名刺を差し出す。名刺は、個人ではなく媒体の顔だった。相手の視線は名刺に落ち、次に背後の廊下へ滑る。


 高瀬は、医療連携室の前で立ち止まった。ガラス越しに、白衣の男性が二人、端末を覗き込みながら短い会話を交わしている。


「診断名、出ますか?」


「判断中。本人、いたって元気そうですが……」


 「元気」という単語がガラスを柔らかく通過して耳に届く。高瀬はノックし、ドアの縁に指をかけた。


「時潮の高瀬と申します。診断書を出した先生に、形式だけでも確認を」


「個人情報ですので……」


 白衣の一人が型通りに述べ、もう一人が視線で上席を探す。

 沈黙ののち、年配の医師が現れた。髪の生え際が後退し、口元に薄い笑みを貼りつけている。


「ここでは患者さんのことは申し上げられません。ただ――」


 医師は手元の紙を見ないまま続けた。


「正式な診断書は、まだお出ししていないはずです」


 言い切りに近い言葉だった。


「報道では入院・静養と」


「入院手続きはしました。静養が必要かどうかは、主治医の判断です」


 高瀬は頷き、メモに「診断書=未発行(医師)」とだけ書く。ここで「矛盾」という語は使用しない。語彙は、心を先に動かす。


「担当医名を確認できますか」


「窓口を通してください」


 定型で会話は閉じられる。しかし、それで終わりではなかった。廊下の先、看護師ステーションの陰から若い医師が一歩出て、小声で言った。


「今朝の段階では、『本日中の公務も可能』という所見がありました。ただ……」


 「ただ」の後ろに言葉が並ばない。若い医師は自身で自身の言葉を回収するかのように、口を閉じた。


「どなたの所見ですか」


「それは……記録をご覧ください」


 記録は開示請求の手続きが必要である。時間の要する仕事だ。報道サイクルにおいて、時間は容易に与えられない。


「主治医の診断は、後ほど公表されるのですか」


 年配の医師が一歩前に出た。


「広報から適切に」


「適切とは」


「適切は適切です」


 高瀬は視線を落とし、白衣のポケットから覗くボールペンのクリップを見た。製薬会社のロゴ。配布ノベルティにありがちな製品だった。


 待合のベンチに移動し、遠巻きに救急外来の出入りを眺める。通用口から、スーツ姿の男性が二人、同時に現れ、受付の職員に名刺を置いた。名刺の角が、官公庁御用達の紙質であることを指先が思い出す。


「先生のご静養に関する報道は、私どもがお手伝いします」


 彼らの声は、よく通る。


 「私ども」は、病院側ではない。誰かの外郭だった。


 医療連携室のドアが再度開き、年配の医師がこちらを見るわけでもなく視線を流した。先ほどより表情の筋肉が硬い。


「先生、診断書は――」


「本日付で発行されます」


 先ほどと状況が異なる。


「病名は」


「差し控えますが、静養が望ましいとの判断です」


 数分で変化した文言を、メモに転写する。言葉は同じ音の並びでも、時刻が異なれば別の意味になる。


 外へ出ると、昼の光が白く、影を薄くしていた。道路の向こう、黒いワンボックスカーが停車し、誰かが乗り込む。窓ガラスに映るのは、病院の外壁だけだった。

 スマートフォンが震える。編集部のチャットに、短い一行。

 〈政治は軽め。経済は「実務回帰」で押す〉。

 高瀬は既読をつけ、メモ帳の余白に小さく書いた。

 〈診断書=出す/出してない(時刻差)/外郭の影〉。


 どれほど綺麗に上書きされようと、インクが重なった痕跡までは消せない。

 高瀬はメモを閉じ、眩しすぎる午後の光の中へ踏み出した。

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