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第10話:四七秒の齟齬

 病院の総合案内脇にあるコピー機は、会計窓口の紙の匂いと混ざり合い、独特の温度を放っていた。


「広報からです」


 受付職員が透明ファイルを差し出す。〈診断書(写)〉と表紙、裏面には小さく複写禁止の赤いスタンプ。

 ページをめくる。病名欄は空白のまま、所見には定型句が並ぶ。「静養を要する」「過度の公務は 控えることが望ましい」。担当医名は判読困難な略字、押印はインクが薄い。


「原本は?」


「病室保管になっています」


 紙の角をそっと撫でる。インクの凹凸がほとんどない。レーザー印字だった。しかし、日付の横だけ微妙にドットの欠けがある。


 報道陣向けの広報文が配布される。「医療機関の判断に基づき、一定期間の静養」――つい先ほど、年配医師の口から出た言い回しと完全に一致する。

 若い医師が先ほどの場所にいない。看護師ステーションで名前を告げると、「交代に入りました」と丸めた笑顔。素早い対応だった。


 連携室へ戻る。年配医師は短い会釈をして、「本日はここまで」とドアの取っ手に指を置く。


「先ほどの『本日中の公務も可能』という所見、撤回されたのですか」


「記録をご確認ください」


 短い返答のあと、ドアが閉じた。取っ手の金属が、乾いた音を立てる。


 ロビーのベンチ。膝の上で診断書(写)の紙をもう一度光に透かす。透かしはない。官製の用紙であれば薄く見えるはずの繊維の筋が見えない。


 自動販売機の脇にある領収書のリールがちぎれ、床に転がっていた。

 拾って、手元の時計と見比べる。


 会計端末の時刻が、壁のデジタル時計より四七秒、遅い。


 四七秒。それは、この病院という閉鎖空間の中で、複数の「時間」が同時に走っている証拠だった。


 「病名は差し控え」「必要な静養」「医師の判断」。口の動きが完全に同期している。

 紙をファイルに戻し、立ち上がる。


 駐車場の外れに回ると、救急搬入口の脇で作業服の男性たちが、監視カメラのカバーを外していた。片方が上を見上げて、もう片方が脚立の足を押さえる。


「点検中ですか」


「ええ」


「いつまでですか?」


「正午まで」


 男性は迷いなく答えた。


 正午。広報文がすべてのメディアに「確定情報」として定着する、その瞬間。それまでカメラは空を見上げ、地上の「手順」を記録しない。


 手元の時計は11:14。病院内で確認した2つの時刻――会計端末と壁時計のズレが頭の舟底で音を立てる。広報文の配布開始時刻と照らせば、どの「時計」に合わせて世界が動いているかが浮き彫りになるはずだ。


 門を出ようとしたとき、肩を軽く叩かれた。先ほどの若い医師だった。目の下にうっすらと疲れの溝が見える。


「すみません。先ほどは……」


「撤回、ということでしょうか」


「診療行為ではありません。体調管理の指導です。判断は、患者さん側のことで」


 言い切らない文だった。


「記録には残っていますか」


 若い医師は小さく頷いた。


「打刻が残ります」


「それは正しいのですか?」


 彼は一瞬だけ黙り、ぼそりと言った。


「だいたい」


 その「だいたい」に、余地が生まれる。


「あなたの名前は、出しません」


「出せません。私は何も言っていないので」


 彼はポケットから試供品の鎮痛薬を取り出し、握らせるように渡してきた。


「頭痛に効きます」


 包装には製薬会社のロゴ。受付のボールペンと同じだった。病院の「顔」は、複数存在する。


 正門でタクシーに乗り込む。ドアが閉まる寸前、院内から出てきた黒いワンボックスカーが別口から正門を避けて出ていくのが見えた。助手席の男性が手で遮るように、顔を少し伏せる。

 タクシーのレシートを受け取り、財布に滑り込ませる。時刻、出発地、行先。


「どちらへ」


「議員会館へ」


 運転手がウインカーを上げる音が乾いていた。窓の外の光は均等で、影だけがそれぞれの長さで地面に引き伸ばされている。

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