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第11話:情報の座標

 午後の国会通りは、日差しだけが強く、風がない状態だった。喫茶店のドアを押すと、弱い冷房とコーヒー豆の焦げた匂いがまとわりつく。壁の木目は手あかで艶を帯び、席のビニールレザーは角がわずかに剥がれている。店内の時計は正時より三分進んでいた。


 窓際の四人がけを確保し、砂糖を落とし終えた頃、斎木が現れた。古いベスト、擦り減った踵、革の手帳。彼は席に腰を落とすと、まず水を飲み、そのグラスの結露で指先を拭った。


「遅れて悪い」


「大丈夫です」


 カップに口を付けた斎木は、一口だけ飲んで音を立てずに戻す。無駄な仕草をしないのが彼の癖になっている。


「病院は」


「診断書の写しは出ました。病名なし、所見は定型。広報文が同じ文言で回っています。会計端末と壁時計で時刻がズレていました」


「ズレの幅は」


「四十七秒です」


「いい数字だ」


 斎木は頷かない。目の奥だけがわずかに動いた。


「ああいう日は、どの時計に合わせて世界が動くかを見ておけ」


 高瀬は若い医師の言いかけた言葉を報告した。


「『本日中の公務も可能』と口にした医師がいましたが、その後は撤回されました。外郭らしきスーツの男性が広報のテンプレートを指導していました」


「撤回は言葉ではない。環境で発生させる。時間、場所、誰が傍にいるか。本人が『言わない方が身のためだ』と自分で判断するよう、場を整える。だから何も起きていないで済む」


「……なるほど」


 斎木は紙ナプキンを縦に折り、さらに横に折った。十字の折り目が白く浮かぶ。


「お前が知りたいのは名前か」


「いえ。手順です」


「ならば、手順を並べろ」


 斎木はベストの内ポケットから薄い封筒を取り出し、テーブルの端に置く。封は糊付けされていない。


「昔の『健康理由』ケースの会食リスト。コピーだ。記事にするな。見るだけにしろ」


 封を開けると、墨の帯が等間隔で並ぶ紙が二枚現れた。黒塗りは縦横の端がきちんと揃い、角にわずかな丸みがある。印刷機の癖というより、テンプレートの癖に見えた。


「黒の太さ、角の丸み、余白の取り方。これが同じ手である証拠になる」


 斎木は、黒く塗り潰された箇所を指先でなぞった。


「お前、病院の広報文でも文言の順序を見たろ。『医療機関の判断』『静養が望ましい』『病名は差し控え』。……順序は力だ」


 店の奥のテーブルで、若い議員秘書らが昼食を終え、トレイを重ねている。彼らのバッジは裏返しで、ネクタイの色が三人ともよく似ていた。

 斎木は視線をそらさずに続ける。


「橘は外資と行うつもりだったのだろう。お前が見たF社の『特区骨子』、あれは本来、官が仕切るはずの棚に先に入っていた。順序を無視したものは、誰かが戻す」


「戻す」


「形を壊さず、時間だけを動かす。『健康』『静養』『配慮』。このような単語は便利だ。反対できる者がいない」


 店員が氷水を注ぎ足し、伝票を音を立てて置いた。印字された時刻は店の壁時計と同じ、三分進み。高瀬は指で撫で、紙の温度を確かめた。


「誰かが利益を得る」


「その通り。誰が、どの順番で、どの太さで利益を積み上げるか。それで記事の骨格は形成される」


「名前を出さずに」


「名前を出さない方が、読まれることがある」


 斎木は笑った。


「断定しない事実を並べろ。時刻、場所、文言、同じ太さの黒。それで読者は自分で線を引く。こちらは線を引かせる」


 高瀬は封筒を閉じ、財布のチケットポケットに差し込んだ。


「編集部は今週、『実務回帰』で進めると言っています。政治面は荒らすな、と」


「台割は地図だ。スポンサーの進路と風向きが描いてある。神園の広告が先に動くなら、政治記事は後回しにされる。お前は地図の空白を見ろ。そこに道が通る」


 窓の外を首相官邸行きの車列が通過する。サイレンは鳴らず、ウインカーだけが等間隔に点滅した。


「昔の話をもう1つ」


 斎木が言う。


「総務会長代行が健康理由で消えたとき、翌週に別の派の案件が通過した。討議資料は広告束の間に差し込まれて、広報は『適切に』の一点張りだった。病名は最後まで出なかった。会食リストの黒塗りは、お前が見ているものと同じ太さだった」


「同じ太さ、同じ角」


「そうだ。同じ手だ」


 隣席の新聞がパタンと畳まれ、紙面の政治欄に大きな見出し。〈実務回帰〉の四文字が太い。高瀬はそのフォントの厚みと、封筒の黒塗りの厚みを、なぜか同じ筋肉で記憶した。


 斎木が小声で付け加える。


「病院の監視カメラ、どうだった」


「搬入口で点検中。正午までと」


「正午きっかりに運用を戻すと、『偶然』が綺麗になる。世界の時計を合わせる役がいる」


「合わせる役」


「役割は個人名より長く続く。そこに藤原を置くか、別の記号を置くかだ」


 冗談めかして言い、すぐ真顔に戻った。


「口が滑った。忘れてくれ」


 店の奥で、レジが「ピッ」と鳴る。店員が入力した金額と釣り銭の音が重なる。レジの時計は壁の時計と一致している。

 斎木はカップを空にし、ソーサーの縁に一円玉を置いた。


「病名が出ないまま辞任なら、健康は政治の別名になる。会見までに広報文の言い回しが一本化されるか見ろ。病院の文、事務所の文、官邸の文。それぞれの主語がどう変わるか。主語は手の内だ」


「主語……」


「『当院は』『事務所としては』『政府としては』。3つの文を並べると、力の座標が視認できる」


 伝票を手に取り、二人でレジに向かう。高瀬が支払い、レシートを2つ折りにして財布へ入れた。印字の時刻は三分進みのままだった。

 外へ出ると、風がわずかに動いた。信号待ちの列の最後尾に並びながら、高瀬は封筒の中身をもう一度思い浮かべた。黒の帯、角の丸み、余白の取り方。


「記事になるかどうか」


「会社が決める」


 斎木は信号を見たまま言った。


「しかし、お前の手帳はお前が決める。線はお前が引け。出すかどうかは、その後の判断だ」


 信号が青に変わり、人の帯が動く。二人は逆方向に別れた。振り返らずに歩くのがこの街の作法だった。


 編集部へ戻る途中、高瀬は官庁街の端を曲がり、コンビニに入った。封筒の中の紙をスキャンする。店のスキャナの時刻は壁の時計より一分遅い。データ保存の画面に流れるバーの動きを見ながら、病院の会計端末の遅れ、壁時計の進み、店の時計の遅れを並べる。


 それぞれの時計が刻むわずかな端数。その背後で、すべてを「一七秒」という最小単位で同期させている、巨大なマスタークロックの存在を予感せずにはいられなかった。


 時間の癖が地図のように広がった。


 スキャンの音が止み、レシートを受け取って財布へ。時刻が記録の杭となる。杭が増えると、線は細くとも強固になる。


 外に出ると、空は白い。影は短く、地面に貼り付いていた。


――この世をば、わが世とぞ思ふ。


 詩の一節が再度浮かび、今度はすぐに消えた。詩は記事にならない。記事は時刻と順序と同一の太さで構成されている。


 高瀬は歩幅を少し広げ、編集部に向かった。封筒は内ポケットの底で静かに触れ、紙の角が布越しに小さく自己主張した。次に並べるのは、台割ではない。順序だ。そして主語だ。

 主語が剥ぎ取られたニュースに、本来の持ち主を書き込んでいく。それが高瀬に許された、唯一の「手順」への反逆だった。

 今日はそこまでで良い。明日は、その先へ進む。

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