■九話 皇帝、十年ぶりに姿を現す
その男は、十年間、一度も皇帝の冠を被らなかった。
それでも、一万人の兵士が、彼の前で跪いていた。
「……立て」
低い声が、巨大な地下都市に響いた。
一万人の兵士が、一斉に立ち上がる。
その動きには、少しの乱れもなかった。
彼らが立っているのは、地上ではない。
北東辺境国のさらに北。
雪と氷に覆われた山脈の地下。
かつて北方帝国が建設した、巨大な地下都市だった。
そこには兵舎があった。
武器庫があった。
食料庫があった。
そして、十年間、一度も使用されなかった巨大な工場があった。
工場の中央では、古代の魔導炉が赤く輝いている。
その前に立っていたのは、一人の老人だった。
白くなった髪。
深い皺。
だが、その目だけは十年前と変わっていない。
男の名は――
プーチノフ。
かつて、北方帝国の皇帝だった男。
「陛下」
一人の将軍が歩み寄った。
「七つの国で、異変が起きました」
プーチノフは振り返らなかった。
「知っている」
「帝国の鐘が鳴りました」
「それも知っている」
「東方連邦で、禁忌魔晶石が発見されました」
「それもだ」
将軍は息を呑んだ。
「では……」
プーチノフがゆっくり振り返った。
「天槍が起動する」
その言葉に、将軍の顔が強張った。
「……本当に存在したのですか」
「存在した」
「では、あの伝説は……」
「伝説ではない」
プーチノフは、地下都市の天井を見上げた。
「帝国が千年以上かけて準備していた計画だ」
将軍は黙った。
しばらくして、震える声で尋ねた。
「ならば……なぜ陛下は、帝国が滅びるのを止めなかったのですか?」
プーチノフは答えなかった。
代わりに、壁に刻まれた古い文字を指差した。
そこには、こう書かれていた。
『帝国は、一度滅びなければ完成しない』
「……これは?」
「帝国建国以前の記録だ」
プーチノフは静かに言った。
「初代皇帝は、最初から知っていた」
「何を……?」
「巨大な帝国は、永遠には続かない」
「だから、帝国を滅ぼした」
将軍の顔から血の気が引いた。
「……まさか」
「そうだ」
プーチノフは歩き始めた。
「十年前、私は帝都から逃げた」
「誰もが、私が恐怖から逃げたと思った」
「だが違う」
巨大な扉の前で、プーチノフが立ち止まる。
扉には、古い帝国の紋章が刻まれていた。
「帝国を再建するには、帝国が一度完全に消える必要があった」
将軍は言葉を失った。
「七つの国が成立するまで、天槍は眠っている」
「七つの国が成立した今――」
プーチノフが手を伸ばした。
古い扉が開く。
その先には――
無数の巨大な魔導兵器が並んでいた。
戦車。
飛行艇。
巨大魔導兵。
そして、見たこともない黒い兵器。
「十年間、我々は何をしていたと思う?」
プーチノフが笑った。
「帝国軍を再建していた」
「一万人ではない」
「十万人でもない」
「百万だ」
将軍が息を呑む。
その瞬間。
地下都市全体に警報が鳴り響いた。
――ゴォォォォン。
「陛下!」
別の兵士が駆け込んでくる。
「地上から報告です!」
「何だ」
「北東辺境国の軍隊が、こちらへ向かっています!」
プーチノフは少しだけ笑った。
「そうか」
「我々の存在が知られたか」
「迎撃しますか?」
「必要ない」
「しかし――」
プーチノフは将軍を見る。
「門を開けろ」
「……はい?」
「敵に見せてやる」
プーチノフは歩き出した。
「十年間、我々が何を作っていたのかを」
同じ頃。
北東辺境国。
首都軍事会議室。
巨大な地図の前に、各国の代表が集まっていた。
「地下都市に、帝国軍が存在する」
北東辺境国の将軍が言った。
「規模は不明」
「だが、衛兵隊だけで数千」
「さらに地下には巨大な工場がある」
東方連邦の代表が立ち上がった。
「まさか……」
「旧帝国軍の残党か?」
「違う」
北東辺境国の将軍は首を振った。
「残党ではない」
「十年間、ずっと増強されていた軍隊だ」
部屋が静まり返る。
南方王国の代表が尋ねた。
「誰が指揮している?」
その質問に――
将軍は答えなかった。
代わりに、一枚の古い肖像画を机の上に置いた。
全員が息を呑む。
そこに描かれていた男は――
十年前に死んだと思われていた人物。
「皇帝……プーチノフ」
誰かが呟いた。
その瞬間。
会議室の巨大な魔導通信機が震えた。
ザーッ。
画面に映像が映る。
暗い地下都市。
その中央に、一人の男が立っている。
白髪。
黒い軍服。
そして――
十年間消えていた、あの顔。
プーチノフだった。
「久しぶりだな」
七つの国の代表が凍りつく。
プーチノフは、ゆっくり口を開いた。
「私の帝国を滅ぼしてくれて、ご苦労だった」
誰も声を出せない。
「お前たちは、よくやった」
「帝国を七つに分けた」
「国境を作った」
「軍隊を作った」
「通貨を作った」
「そして――」
プーチノフの背後で、巨大な魔導炉が点火した。
「天槍を完成させた」
画面が大きく揺れる。
七つの国の国境。
その地下深くから、青白い光が伸びていく。
一本。
二本。
三本。
やがて七本。
七本の光が、大陸中央で交差した。
「今から始まる」
プーチノフが言った。
「帝国再建だ」
通信が切れた。
誰も動かなかった。
やがて東方連邦の代表が呟く。
「……我々は」
「帝国を滅ぼしたんじゃない」
その顔が青ざめる。
「帝国を……作り直していたのか」
その頃。
東方連邦の地下研究所。
皇帝の血を引く青年は、一人で古代装置を見つめていた。
目の前には、黒い魔晶石。
その隣には、古代帝国の設計図。
青年は一枚の文書を手に取った。
そこには、初めて見る名前が書かれていた。
「プーチノフ……?」
その下に、さらに一文。
『皇帝は、帝国再建計画の実行者ではない』
青年の表情が変わる。
その下には――
『皇帝自身もまた、計画によって選ばれた駒である』
「……何だと?」
そして最後の一行。
『真の皇帝は、まだ目覚めていない』
青年の背後で――
誰も触れていない古代装置が動き始めた。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
そして。
地下深くから、声が響いた。
『第一皇帝――覚醒準備』
青年は振り返った。
その瞬間。
大陸全土が揺れた。




