■第六話 七つの国
一年後。
かつての北方帝国は、もう存在しなかった。
大陸の北半分を覆っていた巨大な国土。
千年以上続いた帝国。
百万を超える兵士を抱えた軍事大国。
そのすべてが消えていた。
その国土には、七つの国が生まれていた。
北方共和国。
東方連邦。
南方王国。
西方諸侯連合。
中央帝国。
新生モスカル共和国。
そして、北東辺境国。
七つの国。
七つの軍隊。
七つの通貨。
七つの政府。
そして、七つの歴史。
かつて帝国だった大地には、新しい国境線が引かれていた。
昨日まで同じ国だった町と町の間に、
国境検問所が作られた。
兵士が立つ。
通行証を確認する。
税を取る。
帝国時代には必要なかったものだった。
「ここから先は、北方共和国です」
「昨日までは帝国だったのに?」
「昨日まで、です」
そんな会話が、あちこちで交わされるようになった。
不思議なことに、七つの国に分かれても、人々は同じ言葉を話していた。
同じ文字を使っていた。
同じ料理を食べていた。
同じ歌を知っていた。
同じ歴史を学んでいた。
祖父も父も、そのさらに先の先祖も、かつては同じ帝国の民だった。
それでも。
もう一つの国民ではなかった。
北方共和国の人間。
東方連邦の人間。
南方王国の人間。
西方諸侯連合の人間。
中央帝国の人間。
モスカル共和国の人間。
北東辺境国の人間。
たった一年。
それだけで、人々の呼び方は変わっていた。
ある晴れた日。
老人が一人、崩れ落ちた帝国軍の記念碑の前に立っていた。
そこには、かつて帝国軍百万の兵士を讃える巨大な石碑があった。
今では半分が崩れ、
文字もほとんど読めなくなっている。
老人の隣には、小さな孫がいた。
孫が尋ねる。
「おじいちゃん」
「なんだ?」
「昔は、ここから北の果てまで全部帝国だったの?」
老人は遠くを見つめた。
「ああ」
「すごく大きかった?」
「大きかったよ」
「強かったの?」
老人は少し笑った。
「強かったよ」
「じゃあ――」
孫は不思議そうに首を傾げた。
「どうしてなくなったの?」
老人は答えなかった。
しばらくの間、
崩れた記念碑を見つめていた。
そして。
かつて皇帝宮殿が建っていた方向を見る。
そこには、もう宮殿はない。
焼け落ちた石壁だけが残っている。
老人は静かに言った。
「強すぎたから……ではない」
「じゃあ、どうして?」
老人は少しだけ間を置いた。
「みんなが――」
「帝国は明日もあると思っていたからだ」
孫には、その意味が分からなかった。
老人は続けた。
「税金が上がっても、明日には元に戻ると思っていた」
「食料が足りなくても、誰かが何とかすると思っていた」
「兵士の給料が遅れても、帝国なら最後には払うと思っていた」
「地方が苦しくても、中央が助けてくれると思っていた」
老人は、遠くに並ぶ七つの旗を見た。
「誰も、その日が最後の日になるとは思っていなかった」
その瞬間。
風が吹いた。
かつて帝国旗が掲げられていた場所で、
七つの国の旗が揺れた。
北方共和国。
東方連邦。
南方王国。
西方諸侯連合。
中央帝国。
新生モスカル共和国。
北東辺境国。
七つの旗。
かつては、一つの旗だった。
老人は目を細める。
「帝国は、戦争で一日で滅びたんじゃない」
「少しずつだった」
「少しずつ?」
「ああ」
老人は頷いた。
「人々が、帝国のために我慢する理由を失っていった」
「そして――」
「最後には、誰も帝国を守らなくなった」
孫は黙って聞いていた。
老人は、最後に崩れた記念碑へ目を向けた。
「国は、城壁だけでは守れない」
「軍隊だけでも守れない」
「金だけでも守れない」
「人間が、『この国を残したい』と思わなくなったとき――」
老人は静かに言った。
「その国は、もう終わっているんだ」
風が吹き抜ける。
崩れた帝国軍の記念碑。
焼け落ちた皇帝宮殿。
新しく引かれた国境線。
そして、七つの国の旗。
陸軍は大陸最大。
最強。
不滅。
そう呼ばれたルーシア北方帝国は、
敵に滅ぼされたのではなかった。
一度の敗戦で消えたのでもなかった。
革命によって一夜で倒れたのでもなかった。
少しずつ。
少しずつ。
人々の心から、
「帝国のために我慢する理由」が消えていった。
そして最後に残ったのは、巨大な国土。
空になった金庫。
崩れた宮殿。
そして、誰も従わない命令だけだった。
ルーシア北方帝国。
建国から、千年。
その歴史は、そこで終わった。




