01話
空は低い雲に覆われていて、光が重たい
部屋は薄暗くカーテンを開けても、部屋はたいして明るくならない。
お昼はとっくに過ぎていて、チェストの上のデジタル時計が13:07と緑に光っている。隣の部屋からは小さくテレビの音。台所の方から、かすかに皿の音が聞こえてくる。
背中に寝汗が乾かないまま残っていて、気持ちが悪い。のろのろとベッドから起き上がり、シャワーを浴びに向かった。
少し熱めのシャワーを頭から浴びる。汗が流れ落ち、頭のもやが少しずつ晴れていく。湯気の中、昨夜の夢の残りが溶けて排水口に吸い込まれていく気がした。
身体を拭いて着替えようとしたとき——鏡の中で、ふと目が留まった。
左のわき腹から腹にかけて斜めに走る、薄い痣。何かの形というわけでもない、ただの染みのような痣。
これって、あの時についたものなんだろうか。
子供の頃は気にもしていなかった。生まれつきなんだと思っていた。誰にでもあるものだと、思っていた時期さえある。
そんな痣が、なんだか前よりも濃くなっている気がする。いつから痣があるのか、上手く思い出せない。思い出そうとすると、霧がかかったみたいに輪郭がぼやけていく。
考えるのをやめ、シャツをかぶり鏡から目を離した。
リビングに入ると、テレビからニュースを読む声。天気の話。いつもの昼の音だ。昨夜のことなんてお構いなしに、この家の一日はもう始まっている。
「起きたの。テーブルの上にごはん置いてあるから」
そこには母がいた。
テーブルの上に、ラップのかかった皿が並んでいる。母は薄手の上着を羽織って、鞄に何かを詰めているところだった。これから出かけるみたいだ。
「かあさんは、もう食べたの?」
「わたしはさっき済ませたわ」
「かあさん、今日は体調大丈夫なの?」
「大丈夫よ。今日は体調良いみたい、ありがとう」
なんだか母の顔が、少し疲れて見えた。声の調子は少し明るいが顔色が、あまりよくない気がする。おれは椅子に座って、箸をとった。卵焼きは、まだほんのり温かかった。
「ワタル」
母が、こちらを見ずに言った。
「昨夜は眠れた? 夜中に起きてたみたいだけど、何かあった?」
おれは迷った。
赤い目のこと。知らない場所のこと。ずっと同じ夢を見ていること。夢の続きを見たこと。わからないことは、山ほどあった。
顔を上げて、母を見た。
二つの黒い目が、じっとおれを見ていた。
母の目を、こんなふうに感じたことは今までなかった。ぞくりとした。心配している、というのとは違う。少しの変化も見逃すまいとするような、こちらを静かに観察するような目。
気づけばテレビの音が遠くなり、台所が妙に静かになる感覚。冷蔵庫の低い唸りだけが、足元のほうで続いている。
ほんの一瞬。
その一瞬が、やけに長く感じた。
「……何もないよ」
自分でもよく分からないが思わずそう言っていた。
何でもない顔を作って、視線を皿に戻した。
「そう」
母は短くそう言った。
それだけ聞いて、あとは何も聞かなかった。
さっきの目は、おれの考えすぎだったのだろうか。
鞄のファスナーを閉める音が、静かな台所にやけに大きく響いた。
「かあさんはこれから、オバーのところに行ってくるね」
次に顔を上げたときには、もういつもの母だった。
オバーというのは、近所に住むユタのお婆さんだ。母は時々、オバーの仕事の手伝いや、家の用事を手伝いに行く。ここに引っ越して来てから、ずっとそうしている。
「今日も行くの? 次は明後日って、言ってなかった?」
母の手が、ほんの少しだけ止まった気がした。
「急に呼ばれたの。オバーも歳だから、いろいろあるみたい」
そう言って母は笑った。いつもの笑い方だった。
おれは「ふうん」とだけ返した。母がオバーのところへ行くのは、別に珍しいことじゃない。呼ばれたのなら、そうなんだろう。
いってきます、と言って母が出ていき、玄関の戸が閉まった。家の中が、急に静かになった。おれは一人、冷めかけた残りのごはんを口に運んだ。
頭の中に、さっきの母の目が、まだ残っていた。母は、何か知っているんじゃないか。ふいに、そう思った。
あの夢のことも、この痣のことも。本当は何か知っていて……
もしあのとき聞いていたら、教えてくれたのだろうか。
それとも——また、あの悲しい顔をさせるだけだろうか。
むかし一度だけ、母に聞いてみたことがある。
「どうして沖縄に引っ越したの? お父さんとは、もう会えないの?」
母はひどく悲しい顔をして、
「ごめんね。お父さんに会いたいよね。」
震える声で言った。母のあんな顔は、もう見たくない。おれはそれ以来、聞くのをやめた。
おれは立ち上がり食器を片付けた。蛇口から流れる水の音が、静かな家の中でひとりだけ喋っているみたいだった。隣の部屋では、まだテレビが小さく続いている。誰も見ていない画面の中だけで、世界はいつもどおりに回っている。
赤い目。暗い場所。祠。二人の男の子。
あの子たちは、誰なんだろう。
あの夢のことは何もわからない。もし、あれが本当にあったことなら。あの二人は、あの後どうなったんだろう。考えても、答えは出ない。
いつもそうだ。考えは決まって同じところで行き止まりになって、その先には、霧がかかっている。
夜にはバイトがある。それまでは、いつもと同じ、なにもない一日のはずだ。
窓の外で、低い雲の下を、乾いた風が吹いていた。




