折れる心
固く閉じられた窓から澄んだ青空を見上げる。あの北の空を思い、窓に手を這わせた。
まだ指を落とされた感触が消えない。
治癒魔法をかけたから、もう痛みはないはずなのに。
足も目も耳もお腹も、殴られた頬も踏み躙られた太腿も……なぜか痛みが消えない。
いつだったかーーそうだ、確か騎士団の訓練で救護室の者が常駐していた時だ。
若い騎士に絡まれた私が「怪我をしても治せばいい」と言ったことがあったな。
今はあの時の自分の無神経さが憎らしい。
「セルシオン様も怒るはずですよね……」
はは、と力なく笑う。その拍子によろけて、窓枠の部分を慌てて掴む。
この二日間、大量に失血した。
治癒魔法で治しても血液まで増やせるわけではないため、今の体調は最悪だ。
今日も同じような目に遭うなら失血死するかもしれない。
(でもむしろ、これで終わるならきっとその方が……って、だめだめ、だめです! セルシオン様を悲しませるわけにはいきません。シアもコーネリアも……それにきっとナレアスだって心配してくれてるはずです。だから、まだ私が諦めたらだめです……)
言い聞かせながら無意識に零れた溜め息で曇った窓ガラスに額をくっつける。
今頃ダクス公国の皆はどうしているだろう。きちんと休んでいるだろうか。無理をしてないだろうか。
それからーー
「シア……」
私の大切なたったひとりの侍女。
あの時の痛みや苦しみは相当なものだっただろう。
ベルヅ国王が薬は本物だと言っていたが信用できるはずかない。
会って無事を確かめたい。
それかせめてダクス公国の人からシアは無事だと一言だけでいいから聞きたかった。
「しけたツラしてなァ。旦那が来たんだからもっと嬉しそうな顔してみろよ」
昼前に唐突にやって来たイグニダ将軍はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながらソファにどっかりと腰掛けた。
「まだ婚約式すらしていないのですが」
「あ? そうだったか? まあ細けェことはいいんだよ。邸から出られないなら式をしようがどうしようが変わらねェからな」
「…………そうですか」
正直、即婚姻とならなくてホッとしていたので話は掘り下げずに終わらせる。
セルシオン様以外と婚姻だなんて考えたくもない。
イグニダ将軍がソファの背もたれにその巨体を預けるとギィ……とソファが悲鳴を上げた。
私が寝そべることができる大きさのソファなのに、彼が座るとまるで子どもサイズに見えてしまう。
「ああ、そうそう。今日は優しくしてやろうと思って解体ショーのお誘いに来てやったんだ。ほら、痛みに慣れたらつまらねェだろ?」
解体ショー? この時点で嫌な予感しかしない。
「さっき国王から祝いに活きがいいネズミを貰ってなァ。地下室にぶち込んだんだが」
足を組み替えたイグニダ将軍がニタァ、と笑う。
「北に住む薄汚いネズミだ。お前がいればいくらでも遊べそうだなァ」
「っ!」
恐らく捕まったのはダクス公国の者だ。
気付いた瞬間、冷や汗が流れ落ちた。
「安心しろ。伝染病はなさそうだぞ。いくらでも血を撒き散らして問題ない」
「狂ってます……」
「ハッ、何の新鮮味もない評価だなァ。クソみたいな事しか言えねェのか?」
「皆さんそう仰るなら、私の認識に間違いがないようで何よりです」
「へェ? 随分と強気だな。殺されてェか?」
「そうですね。いっそのこと殺していただいた方が助かります」
目を爛々とさせて殺気を滲ませるイグニダ将軍にぶるりと震えながらも、どうにか笑みを保って吐き捨てる。
今ここで時間を稼げば、少しでもダクスの騎士が生き延びられる。
ほんの数分の微々たる時間でもいい。
もしかしたらその時間でセルシオン様達が間に合うかもしれないのだから。
目に見えて分かるほど体を震わせていると、急にイグニダ将軍は殺気を消して肩を竦めた。
「そう死に急ぐなよ。手元が狂わない限りは可愛がってやるから安心しろ」
「それの何を安心しろと?」
「こんな見え透いた時間稼ぎにも付き合ってやってるんだ。俺にしては優しくしてやってると思わないか?」
「……それは……そうかもしれませんね」
気に入らなければ即座に切り捨てると聞く。
確かに現在の私の状況を考えるとだいぶ寛容な対応をしてもらえているのだろう。
イグニダ将軍は膝に手をついて立ち上がると、その手に持った首輪を私の目の前で揺らす。
「さァて、聖女サマ。時間切れだ。そろそろ行くか」
鎖で繋がれながら地下室への道を辿る。
歩く速度を落としてみても引き摺られるだけで何の抵抗にもならなかった。
そして、今日も血腥い地下室へとやって来た。
部屋の中央にある台の上で手足を大の字で拘束され、寝かされている男性がいる。
この部屋で私とイグニダ将軍以外を見るのは初めてだった。
来ている服は質素な平民服だが、その顔は見覚えがある。やはり予想した通りダクスの騎士だ。
「ほら見てみろ。コレがこそこそとウチを嗅ぎ回っていたドブネズミだ。俺が今から解体方法を教えてやるよ」
ナイフを手にその台に近付くイグニダ将軍。
その姿だけで、体が固まって頭が真っ白になった。
あの騎士が、昨日のそして一昨日の自分の姿に重なる。
鮮明に痛みが蘇り、目を見開いたまま呼吸の仕方も分からなくなった。
「せ、聖女様っ……! 今の内にお、お逃げくださ、あ、あ"、がッ、ぁぁあああ"あ"あ"!!」
拘束された手足をバタつかせる音がする。
ハッと我に返り、イグニダ将軍の右腕を押さえ込む。
「や、やめてください!!」
しかし私がぶら下がるように腕にしがみついても、まるで気に留める様子もない。
「なんだ、特等席で見たかったか? おーおー、いいぜ。なんならお前がやってみろ」
私にナイフを握らせて、騎士の皮膚に当てようとする。
「い、嫌です!!」
ナイフを投げ捨てるように落として、騎士に覆い被さって守る。
どこを怪我したかなんて確認すらせず、治癒魔法を全身にかけて、騎士に謝罪を繰り返す。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。私のせいです。私があなたを巻き込んでしまいました……」
「聖女様……俺は死も覚悟して来たのでお気になさらず。必ず公王陛下があなたを助けに……ッ!? ぅあああああっ!!」
「どうしました!?」
身を起こしてイグニダ将軍の行動を即座に確認すると、拷問器具で騎士の左手の小指が潰されていた。そして、すぐ隣の薬指も今潰された。
騎士の悲鳴が狭い地下室にこだまする。
「やっぱ悲鳴は女の方がいいな。男の悲鳴なんざ耳障りでしかねェわ。っと、解体っつってんだから潰してばっかいねェでバラさねェとな。なァ、聖女サマ。最初は目ん玉か内臓かどっちがいい? 選ばせてやるよ」
騎士に治癒魔法をかけてから、イグニダ将軍に向き直る。
「どちらもお断りです! 彼を解放してください!! 私が代わりに受けますからっ、だから!」
呆れ返ったイグニダ将軍が手に持ったナイフをクルクルと回しながら私を馬鹿にしたように見下ろす。
「敵国の兵士を解放しろって? 馬鹿か? マジで脳みそ花畑だろ。さすが聖女サマだな」
ぐいっと腕を捕まえられ、手の平にナイフを突き立てられる。ナイフが貫通し、台の上で固定された。
「ぅ、く、ぁぁあっ……!」
「最初の頃はもっと良い声で鳴いてくれてたのになァ。押し殺した悲鳴も良いっちゃ良いか」
そして、私の髪を乱暴に掴み上げたイグニダ将軍が至近距離で言い聞かせるように殊更ゆっくりと告げる。
「いいか? 俺が良いって言うまで治癒魔法はかけるな。お前にもネズミにもな。言うこと聞かなかったら首を落とす。理解したか?」
無言でコクコクと首を縦に振ると、満足したようで髪から手を放された。
そして騎士を見下ろすと喉を震わせて嗤う。
「その藍灰色の目、兄貴にそっくりだ。ーー抉りたくなる」
その言葉を皮切りに、悲鳴は絶え間なく続いた。
時折、指示されて治癒魔法をかけるが、治してすぐさま切り落とされる腕。抉った瞳をまた押し込まれ、回復させ、丁寧に潰された指を回復させると痛みが残るそばから、またーー
「た、たす、けて……」
死を覚悟していると告げた騎士は永遠に続くのかと思う痛苦に助けを求め始め、そして次第にその声は小さくなり、やがて「殺してくれ」に変わった。
それでも死なせたくなくて、望まれない治癒魔法を指示されるままに発動させる。
目も耳を塞ぎたいが私にそんな資格などない。
自分に与えられる痛みも耐え難かったが、私を助けに来てくれた騎士の苦しむ姿を見る方が余程気が狂いそうになる。
「も、う……や、め……れ……ころ、し……」
虚ろな目で乞う姿を、声を掛けることもできずにただ見つめ返す。
「聖女サマが手を下すなら、このネズミを殺してやっても良いぞ? ん? どうした。助けてやらねェのか?」
無理矢理ナイフを握らされたが、凝視したまま動けない。
本当はわかっていた。
いっそ殺してあげた方が彼は救われるだろう。これ以上苦しめたくない。
だけどーー
「ごめんなさいごめんなさいっ……それでもまだ諦めたくないっ……」
だってもしかしたらって。
もし諦めた瞬間に助けが来たらって思うと、私が恨まれるんじゃないかって……それが怖くて。
ああ、なんて酷い自分勝手な言い分だろう。
こんなのが聖女だなんて笑えない。
セルシオン様に合わせる顔もない。
自分の事ばかり考える、清廉とは程遠い醜い女だ。
これ以上、被害を増やすくらいならーー
追い詰められた状況で、手渡されたナイフが唯一の希望に見えた。
ゴンゴン、と鉄扉をノックする鈍い音で、汚泥に沈みかけていた意識が現実に戻って来た。音に反してやけに丁寧なノックだな、と冷静に考える。
「お取り込み中、恐れ入ります」
聞こえた声は聞き慣れた柔らかな女性の声だった。
まさか、と疑う気持ちと期待で綯交ぜになった心が溢れ出す。
「誰だ」
イグニダ将軍の警戒する声に、返答代わりと言わんばかりに鉄扉は細切れにされた。
そしてその向こうに思い描いていた姿が現れる。
「ユーフィリア様、お迎えに上がりました」
剣を下ろしたナレアスの後ろで、この陰惨な光景が見えていないかのようにコーネリアはふわりと微笑んだ。




