3
冷静になって見回すとどす黒いものが点々とそのコンクリートの周囲を汚していた。
「ねえ、遅れるよ」
僕はたまらなくなって言った。
全身に鳥肌が立っていた。
怖くなっている。
でも、友達はその珍しいものにすっかり魅入られてしまっていた。
大人達はそんな僕らを一顧だにせずに足早に通り過ぎていく。
いつものごとき、大いなる無関心。
蒸した空気が彼の背を後押しする。
果敢にも、そして無謀にもそこへと手を突っ込んだのだ。
「うわっ、なんだこれ。気味悪い」
何かを握ったらしい。
「やめなよ。早く。噛みつかれて変なばい菌とか入ったら、怖いよ」
僕がそういうと、彼は「弱虫」と笑った。
笑ったまま、中をこね回している。
そして。
彼の顔は不意に歪んだ。
そのとき聞いた絶叫は、大人になった今でも『私』を眠りの淵から容易く引き上げる。
大人たちもこればかりは無視しなかった。
大勢が集まってくる中、彼は地面を転がりまわった。
コンクリートは血でべっとりと真紅に染まっていて……。
そして、彼の右の手首から先がなくなっていた。
「痛い、痛いよ!」
彼が喚きたてる声は次第に弱弱しくなっていく。
血が流れ続け、大人の一人がネクタイを外すと彼の手首をきつく締め上げて、救急車を早く呼べ、切られた腕はどこだ? と叫んだ。
我に返ったように大人達は動き出す。
手を探しているのだ。
「あの中のはず」
僕は穴を指差した。
だが、大人が覗いても、あの目も、僕の友達の手も見つからなかった。
僕は騒動の輪からはじき出されて、壁ではなく崖っぷちのようになっている坂のガードレールに体重を少し預けて、この暑い中、走る悪寒を癒そうと両の腕をさすり続けていた。
食べられちゃった。
血塗れの顔の女の子のことが思い浮かんだ。
きっと覗き込んだときに、目玉を食われたんだ。
そして今度は手が取られた。
背中を氷で撫でられている気がした。
空はもう青くなかった。
夕焼けの赤光がアスファルトを赤くしたし、物理的に血で濡れていた。
救急車のサイレンが僕の耳を打った。
その後、その穴は埋められた。その穴で怪我したということは疑いようがなかったからだ。友人の怪我は事故だとされた。
切り落とされた手は見つからなくて、僕の友達は義手をつけることになった。失ったのは右手だったから、生活がとても不便になっただろうと今では思う。当時はあまりそこまで考えなかった。
痛いのが可哀想。痛かった思いをしたのが気の毒で、それ以外はあまり関心がなかった。
真新しいコンクリートを打たれているし、周囲に血の跡の黒い点々がついているから容易に穴の位置がわかる。
ある日の休みの日の昼日中、僕は埋められたその穴に、そっと耳を当ててみた。
かしかしかしかしっ。
ささやかな音だった。
それこそ、ネズミが何かを食べているような。
あの子の手だったものが、コンクリートを爪で引っかいている音だと察すると、僕は冷や汗で全身を濡らした。
この穴は手を手に入れた。
ならばもう、誘い込む必要はない。
一人でこの道を歩く、小さな子をその手を使って引きずり込めばいい。
僕は唾を飲み込んで、穴の中にいる何かに気づかれないようにそっとその場を離れると一目散に家に逃げ帰った。
以来、僕はその道を通っていない。
車の往来が激しい危ないときでも、壁際は歩かない。
4
そうして大人になり、僕は私になった。
子供が出来て、それはとても可愛い娘で。
私はふっと周囲を見回して、壁に穿たれた拳大の穴にきらりと鋭く光るものを見咎めた。
私は娘の手をしっかりと握った。
「パーパ?」
少し痛かったのか、愛娘が不思議そうに私を見上げる。
「大丈夫だよ」
可愛いお前の一欠けら、髪の毛の一本だって、あの穴になんかくれてなどやるものか。
4で別のエピソードにする予定が、文字数足らずでできなかったので、こっちに足しました。
これにて完結




