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女神の国 1  作者: 大福駒子


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蕾の涙


 花街の中央、灯台のように人目を引く豪奢なサロン──《ヴェラーダ》。

 少女はそこで 蕾を意味するヴェリーナ——未来のサロン嬢候補として過ごしていた。


 小柄な体に薄く香油をまとう。美麗な衣装を身につける日を夢見ながら、器を運び、微笑み方を学び、目配せと息遣いを真似る日々。

 同じ店で既に上位称号 「ムサ(muse)」 を得た姉様に付き従っていた。


 夕暮れが花街の灯へ溶けていく頃、姉様と少女は、いつも表通りがよく見える出窓の際に立つ。

 艶やかな美が集う通りの中で、ひときわ異質で目を奪う男の姿があった。


 フードの下で柔らかく光る白銀の髪。宝石の欠片のような無垢な瞳。

 そのムサは彼を——「月の精」 と呼んだ。


 姉様は時折、彼を呼び止め、短く言葉を交わす。

 その横顔がほんのり赤く染まる瞬間を、少女は好きだった。


 数日前、姉様は小さく掠れた声で同じように挨拶をした。

 それに気づいた月の精は、外套のポケットに手を入れ、小さな包みを格子越しにそっと投げた。


 「少ないけれど」

 穏やかな声でそれだけ言って、歩き去った。


 包みを開くと、薄荷と生姜の香る小さな菓子。

 姉様はそれを二つに割り、片方を少女の口に入れてやる。

 ころりと舌の上で転がる糖蜜の甘さに二人は顔を見合わせた。


 姉様のその頬に浮かんだ微笑みが、花街の灯より柔らかく見える。

 けれどすぐに、遣手ドゥエーニャに名を呼ばれ、すぐに彼女は仕事の顔へ戻った。


 「帰りに通るはず。代わりにお礼を伝えておくれ。」

 姉様は衣装箪笥から香り袋を一つ取り出し、少女へ託す。


 少女はそのサシェを胸に抱き、

 「ふたりが仲良くなりますように」

 ——そう祈った。


 だが、彼は通らなかった。


 気になって裏口へ出た時、

 夕闇へ沈む路地から鈍い音が響いた。


 顔をのぞかせた少女の瞳に映ったのは、白が崩れ落ちる 光景。


 足がすくみ、声も出なかった。

 それでも——知らせなければならない と思った。


 震えながら店に駆け戻り、主人に伝えた。

 だが返ってきたのは言葉ではなく、冷たい処罰だった。


 「裏へ出るな。お前に幾ら掛かっていると思う?余計な口を利くな。黙っていろ。」


 少女はそのまま罰小屋に閉じ込められ、

 ——外へ出られた頃にはすべてが終わっていた。




 「……あの、もし……」


かすれた声に、アルヴェルは顔を上げた。

 格子窓の向こう、白粉の匂いがわずかに漂う薄暗がりから、女がじっとこちらを見ていた。

 その視線がアルヴェルに移り、短く問いかける。

 


「あなたは、彼のお身内……?」


「ええ。大切な、…弟です。」


その言葉に、彼女は深く、くぐもった息を漏らした。


「でしたら……これを。」


 細い指先が、窓の間から外へと伸びる。

握っていた手をそっと開くと、金具が冷たい音を立てて落ちた。


近衛兵の、カフスボタン。


「あの翌日、この子が見つけたのです。

 けれど……近衛の方々が来られたときに渡せば、

“落し物でした”で終わってしまうでしょう。いなかったことに、されるかもしれない……」


そこまで言ってから、女は一度息を詰めた。


「でも……あなた方は——あの夜の彼を想っている。

 そう見えましたから……渡します。」


その瞬間、背後で軽い靴音が止まった。


「ただいま、アルヴェル。……へぇ、運がいいね。」


戻ってきたヘリオスが笑う。

 その瞳だけが、底まで冷えていた。



 それから数刻の後、近衛隊本部。

 一人の近衛兵が縄で後ろ手に縛られたまま跪いている。

 その目の前で、男への憎悪を隠す事なく睨みつけるのは近衛隊長閣下、その人。

 男はそれでも「何かの間違いだ」とか「閣下、聞いてください」などとなおも食い下がった。


 ヘリオスはその様子を隊の最後尾で眺めている。

 アルヴェルは冷酷な表情そのままに腰を曲げ、男の耳元で言った。


「お前の落としものだ——随分と雑な仕事だな」


 アルヴェルが、路地の隅で拾い上げた銀の軍装ボタンをひらりと掲げた。

 男の表情が理解に追いつくまで、およそ一拍。


 男の顔が、凍りついた。


「…ち、ちが…それは閣下…あの捕縛の夜に——」


「まだ、返答を許していない」


 静かに落とされた声は、刃物ではなく氷。それまでざわめいていた兵も押し黙った。


「その夜、——お前は非番だったはずだ」


男はようやく観念したように項垂れた。


 「ヘリオス・ターナー、詳細を」


 短くそれだけ告げ、アルヴェルはヘリオスに合図した。

 ヘリオスは表情ひとつ変えずアルヴェルの前まで歩を進めると、一度捕縛された男を一瞥してから報告内容を述べた。


 セリウスが捕縛された日、その他同様の事件発生日も男は警邏の任についていなかったこと。

 これまで傍目に警邏中と油断させ、夜鷹に近づき暴行を働いたこと。

 その一言が、少女の証言と、真実と、街の闇を、一本に繋いだのだった。

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