喧騒の影
王宮の昼下がり。
麗らかな午後の日が差す回廊で囁かれるのは、そこに似つかわしくない侮蔑と恐怖と、そして浅はかな娯楽。
人は、理解できないものに最も残酷だ。
「……聞いたか?
あの“白い悪魔”が捕まったそうだ」
「あんな男が花街だなんて、下卑た話だわ。ははん、それでは悪魔ではなく色魔だな!」
「まったく、モルフォンド卿もどうかしている。あれほどの異端を養子にするなど」
「そもそも王城に置くからろくでもない噂がつく。教会に押し込めておけばよかったものを」
「しかし、これでようやく王弟殿下も目が覚めるのでは?
あの妖しい男に惑わされて、妃を迎える気配すらなかったのだから」
「陛下もお困りでしょうよ。お世継ぎの問題だってあるのに」
蝿の羽音のようなざわめきを越えた回廊の奥に王弟の執務室はある。
「供述のあった場所はすべて洗いました。しかし子どもは見つかりません。寝床らしき痕跡はありましたので、虚言ではないはずですが……」
報告を受けながら書類に目を落とす。
眉間に深く影が落ちる。
報告は尻すぼみになり、最後はか細く消えた。
「……分かった。ご苦労」
声を出すと、胸が重く沈む。
部下が部屋を辞したのを確認して、アルヴェルは机に突っ伏した。
まだ、数日前の光景を受け止めきれないでいる。
ぐしゃりと掴まれた腕、微かに震える肩。
助けを求めていたはずなのに、声が出なかったのは自分の方だった。
「どう判断なさるかは、閣下のお立場ではございません」
古参の兵が淡々と告げた言葉は正しい。
正しいのに、刺さった。
王弟であろうと、まだ近衛を率いるには若い。
未熟さは、自分が一番よく知っている。
「……連れていけ」
命じた声が、ひどく冷たく聞こえた。
振り返れば、何かが崩れる気がした。
だから振り返らなかった。
そして、もうセリウスの表情を見ることはできなかった。
思えば、自分と二人でいる時の彼しか知らない。
今更になって、世間というものが彼をこんなにも孤独にさせていたか——
そこまで思って、首を振った。
何もできなかったくせに。
微かに空気が揺れるのを感じ、アルヴェルは顔を上げる。
「相変わらず、ひどい言われようだねぇ」
窓辺に寄りかかって背後に映る景色を眺めて男はアルヴェルに話しかける。
勝手に入ったと言うのに悪びれもせず、軽い声音で、しかし目だけは冷ややかに細めて。
「けれど、残念ながら一つ間違っている。
執着してるのは、王弟殿下の方だっていうのに。モルフォンドの若君もお可哀想なことだ」
その一言で、アルヴェルの手の動きがぴたりと止まった。
「……ヘリオス」
呼んだ声は低い。
室内の空気が、ひやりと沈んだ。
「不敬だぞ」
ヘリオスは肩をすくめた。
「おや、君に言われるとは思わなかったよ。図星だったかい?」
冗談めかした口調ではあるのに——その裏に何か確信めいた影があった。
アルヴェルは深く息をつき、顔を伏せるように書類へ視線を戻す。
「……黙れ。今はその話をする気分ではない」
ヘリオスは口笛をひとつ吹いて、降参のしぐさをした。
「はいはい。本題にしようか」
ヘリオスは肩をすくめ、机に突っ伏すアルヴェルの斜め前に立った。
その軽さとは裏腹に、目の奥は冷えた観覧者のまま。
「アルヴェル、そんな顔しないでよ」
声色は軽いが、妙に静かで、刺さる。
「僕はね、君の“月の精”は潔白だと思ってる」
皮肉でも慰めでもない。
ただ淡々と事実を提示する調子。
だから、余計に胸に落ちた。
アルヴェルは顔を上げた。
「……何かわかったのか」
「いんや、まったく」
涼しい顔で笑って、こう続けた。
「だが、“まったく何も出てこない”っていうのが、ね?」
アルヴェルは目を細める。
確かに——静寂は時に、喧噪より雄弁だ。
子どもたちは姿を消し、
セリウスを見たという者もいない。
何もかもが“妙に整ったまま”沈んでいる。
「……協力してくれ」
「もちろん。僕は、君と月の精の大ファンだからね」
冗談めいた口調なのに、芯だけは真っ直ぐだった。
外套を羽織り、アルヴェルは立ち上がる。
「さて、まずは腹ごしらえといこう。花街はどうだ?」
「……悪くない」
その返事に、ヘリオスは満足げに笑った。
暗澹とした空気の中で、その笑みだけが少しだけ温かかった。
花街から道を一本入ったそこは、昼の喧噪から切り離されたかのように静かだ。
路地に漂うのは湿った果皮の匂いと、しみついた酒精の気配だけ。
その静寂を踏み砕かぬように歩きながら、ふたりは現場へ向かった。
「……まだ、何か残っていると?」
アルヴェルが低く尋ねる。
「証言は痕跡と同じさ。残ることも、消えることもある。でもね、痕跡は“誰かの心に”残る。」
セリウスの言葉に、アルヴェルは、あの夜の深淵に落ちた光を拾うように記憶の海を泳いだ。
二人が路地に差し掛かると、建物の影。
そこに小さな背中があった。
幼い少女が、壁の陰に半身を隠して、現場を覗き込んでいる。
アルヴェルが声を掛けようと近づくが、すかさずヘリオスが腕をかすかに伸ばして制した。
「閣下、驚かせると逃げますよ。」
なるほど確かに、ここはヘリオスの方が適任だと視線で合図する。
ヘリオスは腰を下げると、人好きの良い笑みを湛え、穏やかに声をかけた。
「君は、……ここで何を?」
声にハッとして、それから躊躇いがちに顔だけ小さく振り向いた。
齢十ほどか。少女は肩を震わせている。
二人の姿をまじまじと見て、少し逡巡した様に口元を引き結んだ。
それから、小さく、こくりと頷く。
「セリィ先生……死んじゃったの……?」
その声音があまりにか細かったので、アルヴェルの喉が痛んだ。
「生きている、…」
思わずヘリオスの後ろから声を発した。
だが、深く傷ついているのだろうーー声に出ない言葉だけを胸に取り残して。
少女の唇が震え、言葉がこぼれる。
「あのね、誰かがあの人を…殴ったの。倒れちゃって……動かなくなって……!」
堰を切ったように涙が溢れた。
ヘリオスはゆっくりと手を伸ばし、小さな背中をさする。
「それは怖かったね。一つ確認だが…君の見た人は、白銀の青年のことかな?」
少女は泣きながら、頷いた。それから、あの人…と壁の向こうを指差す。
アルヴェルも同じ姿勢を取り、静かに壁の向こうを覗く。
「あの日から、幾度も来ているの…」
「へぇ…“犯人は現場に戻る”と言うが……見事なまでにお約束どおりだ。」
先に反応したのはヘリオスだった。細めた瞳に宿る光は、普段の軟さとまるで違う。
ピリリとした空気に少女も小さく喉を詰めた。
「僕が行ってくる。閣下は彼女を。」
返事するより早く、ヘリオスは壁の向こうに消えた。
*
娼館の角を曲がり、ヘリオスは立ち去る男の背を追いながら思った。
柄にもないな。
幼い頃から、自分はあまり何かに心を揺さぶられることがなかった。貴族社会の端くれで育ったヘリオスは、どうにもこの世界が味気ないものに感じていた。
親も他の貴族連中も皆同じことにしか興味のない、陳腐で卑しく、上っ面。昔から察しだけはいいヘリオスにとって、何が彼らの心をくすぐるかなんて手に取るように分かった。
このままいけば法官に…いや、ゆくゆくは宰相にだってなれるやも知れん、そう言ったのは誰だったか。
それがどうだ。
今は無二の友のために、手がかりの男を追いかけている。
ヘリオスは大通りに向かって駆ける男の背を追いながら、心の中で薄く笑った。
——本当に、逃げきれると思っているのなら、少し残念だな。
彼は男の姿が人混みに紛れた瞬間、追う速度を意図的に落とした。
大通りを目前に、ぴたりと足を止め、誰もいない路地の風をゆっくり吸い込む。
追うべき理由はある。
だが、捕まえるのはまだ先だ。
焦らずとも良い。
既に男の顔は視界に入った。
声も、癖も、歩幅も——充分に確信が持てる。
それより今は、別の優先事項がある。
(神なんて信じちゃいないが…祈ってしまうなあ。
どうか、この物語が誰の予想もなぞらない結末へ転がってくれますようにって)
嘲るようでいて、どこか温度を帯びた笑みだけを残し、ヘリオスは元来た道へ踵を返した。




