Nudus ara, sere nudus.
夏の到来とはいえ、外は昼間と打って変わって時折肌寒い風が吹いていた。
虫の声が、遠くから規則正しく届いてくる。
卓の上には、素朴な料理と、細長い瓶が一本。
高価な酒ではない。だが、香りは穏やかだった。
「……良かったのですか?」
問いに、アルヴェルが杯を掲げた手を止めた。
「何が?」
「領地に来た初夜でしょう?歓迎の宴とか、色々と」
セリウスはそう言って、静かに注いだ。
杯が触れ合う、乾いた音。
「平和な奴だな。いちいち歓迎されるような立場ではないよ、俺は。継承権を退いたとは言え、一応は王族だ。変な気を起こさないように、決して定住させず、国中の直轄地を渡り歩いて統治管理する。それが今の俺の仕事」
本当に、淡々と言った。
そこになんの含みもない。
「ここにだってずっといるわけじゃない。お前と同じだ、俺も」
「……そう、でしたか」
それからしばらくは、言葉もなく飲んだ。
急ぐ必要は、もうどこにもなかった。
「……ランドフォードに行った」
不意に、アルヴェルが言った。
セリウスは視線だけを彼に向ける。
「お前はいなかった。だが代わりに、継母に会えた。久しぶりだった」
それだけ告げて、杯を傾ける。
「子どもたち、元気でしたか?」
「ああ。人も、町も、良いところだな」
睫毛を伏せ、アルヴェルは思い出すようにして答えた。
「こんなことなら、もっと早く外に出るべきだった」
セリウスが見て来たものを、追いかけるようにして見て来た。鮮やかな花々。金色の麦畑。安心して笑う子どもたち。
彼が置いて行った従者たちも、街の住人も、変わらず子どもたちの親代わりとなり、ランドフォードでの暮らしを支え続けていた。
「尊敬するよ…」
茜の瞳が真っ直ぐに向けられる。
その隣に、対等にありたかった人。
その人が、こちらを見ている。
そして、認めてくれる。
それだけで。
「……っ、はは。どうしよう、嬉しいですね」
泣きたいような、それでいて大笑いしたいような曖昧な顔のまま、セリウスは素直に感情を言葉にした。
苦しい。
嬉しくて。
こんな気持ちは初めてだった。
アルヴェルは堪らず、杯を持った彼の手をそのまま掴んで引き寄せる。
「わ、溢れる……っ」
慌てた声を出すセリウスを尻目に、男は腕を背に回してさらに身を近づけた。
「ああ、だめだな……どうも」
肩口で、アルヴェルが小さく自嘲する。
余裕無げに抱き寄せておいて、セリウスの声で、待てを喰らわされた犬のようにじっとしている。
(可愛らしいというか……)
その柔らかな黒髪を撫でてやる。頬を寄せれば、アルヴェルの匂いがした。
おかしなことに、アルヴェルに抱き締められているとセリウスの胸の奥でひそやかに暴れていた痛みが、すっと和らいだ。
触れられた場所から、微かな光が逆流してくる。
「なあ……返そうか?お前がくれたもの」
アルヴェルはその仕組みを知っているはずなのに——抱きしめる腕とその言葉は、それ以上の何かをセリウスに訴えかけてくる。
囁きは落ち着いていた。穏やかに問いかけるそれなのに、けれど、その瞳だけはいただけない。
烈しく燃える熱を隠しもしないのだから。
セリウスはその視線から逃げられず、小さく喉を鳴らした。
「……それはもう、殿下の一部ですから。ぁ……ちょっと!」
波打つ杯を手馴れた手つきで攫い、テーブルに戻す。男のその仕草に、自分ばかりが余裕なく転がされているのだと思うと居た堪れなくなった。
「口付けても……?」
そう言って頸に落ちた口づけは、火照りではなく祈りに近かった。頬を伝う指先はただ確かめるようで、そのどれもが優しい。
——けれどどこか切実で。
「もうしてるではないですか……!」
わざとらしく睨むと、愉快そうに口角を釣り上げアルヴェルは笑った。
「違う、ここに」
指の腹が唇を掠める。
「さっきは驚かせてしまったから、お伺いを立てないとと思って」
随分と殊勝になったものだ。それが今の自分には堪え難い。いっそ何も訊かずに奪ってくれればいいのに。
だから、返事の代わりに瞼を閉じた。
ふっと、小さく笑う気配のあと——。
「ン……」
アルヴェルは決して急くことはせず、セリウスを辿っていった。
口の中に残る果実酒の味も、その温度も、どこが弱くて、歯痒いか、ひとつ残らず。
息継ぎの間にアルヴェルがそっと抱き寄せる。見た目より柔らかな髪が頬を掠め、懐かしい彼の匂いに、遠い昔の感情さえ呼び起こされた。
憧れと依存がごちゃ混ぜのまま、ただ許されるままにそばにいた。
彼の行動に心が掻き乱されるのに、その理由を知るのが怖かった。他の誰かならば嫌悪した距離や行動が、アルヴェルだと苦しいほど胸が高鳴り、あまつさえ自分から欲する程になっていただなんて。
どれだけ否定しても、どれだけ閉じ込めても。
たった一度の口付けでつまらぬ言い訳は霧散し——後には、ただの二人が残った。
腕の中で感じるこの幸福感が、慕情によるものなのか、依存の名残なのか、それともアルヴェルに分け与えた加護の力の引力なのか——本当のところは分からない。
ただアルヴェルにだけは、誰よりも近い場所で笑い合って、恐怖をも飛び越えて触れ合える。
今はただ、その事実があるだけで十分に思えた。
*
朝になって見てみれば、あのひまわり畑は屋敷からよく見えた。
衣擦れの音がして、アルヴェルは振り返る。
「……私の指、どこかに埋まってるんでしょうかね」
言葉には悲しみの欠片も見つからない。ふと思い出したから言った。その程度の呟き。
(こともなげに言うんだな……)
まだ半分眠っていそうな眼差しが、窓の外からアルヴェルへと移動する。
「……悪い、起こしてしまったか?」
「いいえ、よく眠れました」
気の抜けた笑み。そこに残る色香に、アルヴェルは気付かれないように顔を逸らした。
「寒いから、まだ寝てろ」
言いながら、窓を締める。ギィと軋んだ音が嫌に大きく響いた。
「……殿下は?」
「うん?」
「殿下はこんな早くから、もうどこかへ行くのですか?」
アルヴェルは窓枠に手を掛けたまま、しばらく言葉を探すように沈黙した。
「……人の気も知らないで」
呟いた声は、セリウスには届かない。
「お前は分かっててやっているのか?」
今度は聞こえるように言ったが、セリウスは一瞬きょとんとした顔をした。
「そんな格好で、寒いでしょう?」
呆れた様に言うと、小さく息を吐く。
「……」
アルヴェルは、わずかに目を細めた。
言葉だけがやけに真面目で、なのに自分が今にも溶けそうな顔をしているのを、きっと本人は気付いていない。
「……まあいいや。寒い」
結局これ以上何かを言うのは諦めて、ズカズカとセリウスの元へと向かった。
セリウスは近付くにつれ身を固めたが、構わずその額に軽く口付けた。
「え……っ!あっ、そう言う意味じゃ……」
かっと頬が色付く。
「……そういう意味じゃないから、ちょっと隣詰めろ」
そう言って、乱暴に隣へ腰掛けた。
窓の外では、まだ夜の冷たさを少しだけ残した風が、向日葵を揺らしている。
動き出すには、まだ少し早い時間だった。
「……あの花畑は、何なんだ?」
妙な空気に耐えきれず、アルヴェルが口を開く。
「ああ、あれは……土を再生させているんです」
「再生?」
「この土地の穢れ——イシュマエルの言っていたものは、おそらく水銀か、何かしらの重金属です」
「それで、花を?」
「ええ。植物に毒を吸着させるんです。咲き切ったら抜き取って燃やす。それを繰り返して、少しずつ土を戻していく」
セリウスは淡々と説明した。
普段は聞き手に回ることの多い男だが、こうして話し始めると驚くほど現実的で、可笑しい。
昨日、街道を行き交う人々は、あの向日葵畑を見て嬉しそうに笑っていた。
だが、セリウスが見ているのは景色ではない。
もっと先——土地そのものの未来だった。
(本当に……面白い)
もっと知りたい。
この頭の中に、どんな考えが詰まっているのか。
何を欲し、何を成そうとしているのか。
「赴任されるのでしたら、ちょうど良かった。土壌調査をしたいんです。それから今修復している場所も、別の植物が植えられるか確認して——聞いてます?」
ふと怪訝そうな声が飛んできて、アルヴェルは我に返った。
「……もちろん」
「怪しいですね」
適当に羽織っただけのローブ姿で密着しているくせに、口から出てくるのは色気のない話ばかりだ。
けれどその端々に、以前よりずっと自然な親密さが滲んでいる。
それを見つけるたび、胸の奥が静かに満たされた。
ベアラーの癒やしの力などなくても、自分にとって彼がどれほど特別なのか、もう嫌というほど分かっている。
「その件は陛下に掛け合っておく。土地再生ができるなら願ってもない。必要なものは揃えるから言ってくれ」
そう言って、アルヴェルはわざとセリウスの方へ体重を預けた。
理由などなくても、ただ触れていたかった。
逃げられるかと思ったが、意外にもセリウスは拒まず、少し躊躇ったあと、彼もまたそっと頭を寄せてくる。それが嬉しかった。
「イシュマエルも……せめて誰か、まともな大人に相談できていたら、あそこまで道を外れなかったのかも知れません」
小さな沈黙のあと、セリウスがぽつりと呟く。
「だから責任を感じてるって?」
「私が、まともな大人に見えます?」
くすりと笑う。それは可笑しさよりも、自嘲に近い。
「……女神に祈っても何も変わらないと、証明しているんです」
信仰への怒りでも絶望でもない。ただ事実を差し出すような声音だった。
アルヴェルは、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……随分と冷たいな」
「そうかもしれませんね」
即答した彼の視線は、アルヴェルではなく窓の外へ向けられていた。
風に合わせ、向日葵が一斉に首を揺らしている。
「祈りは、人の心を支えます。でも、それだけで土が浄化されるわけじゃない。水を引いて、毒を吸わせる。そうでもしなければ、何も変わらない」
やがてこちらへ戻された水色の瞳は、朝日を受けて淡く滲んでいた。
白昼の月みたいに儚いくせに、語る言葉だけは強かだ。
「結局、人が起こした災いは、人の手で癒やすしかないと——私は、そう思うだけです」
それがセリウスだった。
彼がもっと弱ければよかったのに。
そんな身勝手な願いが、一瞬だけ胸を掠める。
「……愛している」
ぽつりと零れた言葉に、セリウスの呼吸が止まった。
「……今、そういう脈絡のないことを言われるのは、困ります」
突っぱねるような口調なのに、語尾は甘く上擦っている。
「じゃあ、今じゃないなら。いつならいい?」
意地悪く追い打ちを掛けると、セリウスは完全に押し黙った。
朝はようやく本格的に目を覚まし始めていた。
青白かった景色が、少しずつ鮮やかに色づいていく。
そろそろ、今日を始めなければならなかった。
「……私」
掠れた声を押し出すようにして、セリウスが口を開く。
寄り添っていた肩がそっと離れたが、アルヴェルは以前ほど不安にはならなかった。
続く言葉はもしかすると望んだものではないかも知れない。それでも、遮る気にはならなかった。
きっと、拒絶ではないと——分かったからだ。
「これまでずっと……殿下に認められたくて、必要とされたくて。それだけだと思って生きてきました」
向き合うように体を動かし、セリウスは躊躇いがちにアルヴェルの手を取る。触れているのはその手のみなのに、彼の緊張と胸の鼓動が伝わって来るようだった。
「だから正直……自分が御子でも、悪魔でも、そんなことはどうでもよかったんです。
あなただけが、私を“私”として見ていてくれれば、それだけで」
アルヴェルは何も言わなかった。ただ、その手を離さない。
「——でも今は、縋りたくない。何もせず。ただ守られる側には戻りたくないんです」
その言葉に、胸の奥が静かに軋んだ。
ああ、と。
これが——ずっと知りたかった彼の心なのだと思った。
鳥籠を開けようとした自分の行いは、間違いではなかった。
セリウスが何を望み、どこへ行きたいのか。
何者として生きたいのか。
御子としてでも、忠臣としてでもなく。
セリウス自身の口から語られるその願いを、ようやく聞くことができた。
嬉しいはずだった。
それなのに。それを聞いた今になって、自分の知らない場所へ歩いていく未来まで見えてしまう。
「あなたの後ろじゃなくて……一方的に守られるんじゃなくて——今みたいに、同じ高さで向き合いたいから……。
だから、もっと……ちゃんとしたいんです」
王都を離れてから今日まで、彼がどんな風に生きてきたか——。ここまで来る道々で聞き知った話は良いものばかりではなかった。
それでも自由である事を願って手離したのだ。
そして今、セリウス自身が同じ様に願っている。
あの日、ランドフォードに送られなければ芽生えなかった『自らの生を歩む意思』を、今更どうして無碍にできるだろうか。
アルヴェルの喉が、ごくりと鳴る。額を触れ合わせて、苦笑するように囁いた。
「同じ高さ……か。だったら……俺は——」
自分から手放しておいて惜しくなる、その傲慢な感情が、独占欲からくるものなのか、同情なのか、依存心なのか——。
もはや正体など大した問題ではなかった。
せめて、自らの足で歩み始めた人生に、もうこれ以上悲しみの雨が降らないよう、こっそり後ろから傘をさせたら良いのに。
「いや、何でもない。
……これからは、行くべきところへ行って、好きなことをやればいい。みやげ話を楽しみにして待っているから」
伸ばしかけた手は結局、抱き締める代わりにそっと背中を撫でるに留まった。
(またそんな顔をして……)
彼を思うが故に踏みとどまったはずなのに、セリウスの眼差しは寂しげに揺らいでいる。
絆されることを望んでいないはずなのに。
それでも慣れ親しんだ場所に身を置きたくなるのは、弱さではなく、人という生き物の性なのだろう。
「さあ、そろそろ準備しよう」
アルヴェルは気づかないふりをして立ち上がる。
「立てるか?——セリィ」
手を差し出すと、彼は一拍置いてから躊躇なくその手を取った。
「ええ」
それだけで十分だった。
離れても、迷っても——きっと帰る場所だけは、もう迷わないだろうから。
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次回6/10の配信で最終回を迎えます^^
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