向日葵
セリウスが王宮を去った直後、王都は思いのほか静かだった。
御子の失脚、あるいは追放。
そうした刺激的な言葉が飛び交うことを、重臣の多くが予想していたはずだ。
だが、噂は広がらなかった。
理由は単純だった。
彼は、何も残さなかったのだ。抗議も、弁明も、告発もなく、ましてや己の無実を主張する声も上げなかった。
血の繋がりのない養子のために、モルフォンド卿は自分を断罪するよう申し出たが、王宮はあの日の出来事について一切の他言を許さず、ただ「役目を終えた御子が去った」とだけ発表した。
そして教会もまた——沈黙を選んだ。
代わりに、人々の関心を一身に集めたのは、別の話題だった。
生まれる前に後妃と共に亡くなったはずの末の王弟が生きていたこと。
そしてその子が、ようやく王宮へ帰還したこと。
——セリウスが言った通り、人々は物語を欲していた。
ローワン・ランドフォード。十三歳。
辺境育ちの少年が、王宮に名を連ねたという事実は、あまりにも分かりやすく、あまりにも新しかった。
そして、この話には、誰もが噛み砕ける形の起承転結がある。
そこに、御子セリウスの名は存在しなかった。
あまりにも整いすぎた舞台の上で、彼は最初から、語られる役を与えられていなかったかのように。
それからのことは、驚くほど静かに進んだ。
ローワンの立場は不安定でありながら、同時に強固だった。子どもと大人の狭間である年齢、辺境育ちという経歴、そして何より——自ら望んで火中に身を投じたという事実が、彼を軽々しく扱うことを許さなかった。
彼は多くを語らなかった。
笑みを絶やさず、正しい言葉だけを選び続けた。それが、かつての父王と同じやり方だと気づく者は少ない。
気付けば、ニ年が過ぎようとしていた。
定例会議の後、ローワンの姿は国王の執務室にあった。
今日も今日とて、彼から直々にありがたい指導を受け、鳩尾を何度も射抜かれる感覚に耐えながら首を垂れていた。
「……私はお前を、血だけで選んだのではないよ」
脈絡なく落とされたそれは、だがおそらく励ましの言葉だった。ローワンが顔を上げると、アーサーは口の端をわずかに上げる。
「……そなた、教皇を相手に取引したそうだな」
ローワンは否定をせず、ただ黙って聞いていた。
はぐらかすべきではないと判断したからだ。彼なら簡単に自分の情報を手に入れているはずだった。
アーサーはそんなローワンの様子に満足そうな笑みを浮かべ、続ける。
「セリウスからの手紙を読んで、正直驚いたよ。
それに、その胆力こそ必要だと思った。私が選んだのだ。だからもっと堂々と——」
ああやはり、国王はまだ未熟な自分を励ましてくださったのだ。——そう思うより先に、何かが引っかかった。
「……手紙?」
しかも陛下は、それを読んだから自分を王宮に迎え入れようと決めたって?
(それって……)
眉をぎゅっと寄せ、困惑するローワンの目の前で、国王は——にっこりと笑った。
「……陛下は、初めからご存知だったのですか?」
ようやく長椅子に腰掛けると、居心地悪そうに身を縮めたままでローワンは訊ねた。
アーサーは相変わらずひとり愉快そうに微笑むと、机の引き出しから件の手紙を取り出した。
「知っているか?あいつは、昔からチェスがうまい」
そう言って自らもローワンの斜向かいに腰掛けると、手の中のそれを差し出した。
「怖い男だよ。私まで駒にして、すべて思い通りに運んだ。……まさか、最後に自分自身を差し出すとは思わなかったが」
苦笑に近い吐息だった。
柔らかな筆致で書かれた宛名を撫でながら、その言葉をローワンは静かに噛み締める。
手紙は読まなかった。
アーサーにとってもセリウスは無二の友人だったのだろう。それが言葉の端々に感じられ、手紙を開く気にはなれなかった。
「まあ、晴れて第一王子も生まれたことだしな」
あのときはまだ誰も確信できなかった未来を、アーサーは世間話でもするかのように口にした。
「そなたに言われた通り、向かないと分かっていていつまでもアルヴェルを次代の王の重みの下に置き続けるのも性に合わん。……エミリア嬢には、少々気の毒なことをしたが」
思いがけない名前にローワンはうっかり瞬きが多くなる。それに気付かない振りをして視線を伏せると、アーサーは続けた。
「正直に言えばだ。あのまま、そなたの妃にしてしまっても、構わなかった」
あくまでも軽い言い方だった。
だが、王が口にすれば、それは冗談ではない。
ローワンは、間を置かずに答える。
「嫌ですよ」
きっぱりと。
「お下がりなんて、まっぴらごめんです」
今度はアーサーの方が瞬いた。
「僕は——ちゃんと、選ばれたい。
誰かの都合や、余り物じゃなくて。僕自身を見て、必要だと言われたいんです」
その声音には、怯えも焦りもなかった。
アーサーは、しばらくローワンを見つめ、やがて、小さく笑う。
「……なるほど。ではますます励まねばならぬな」
それはこれまで無二の実弟に向けてきたものと、同じ笑みだった。
*
「それはそうと……。あの人、もう少し別れを惜しむかと思ったのに、揚々と出て行きましたね」
しばしの沈黙の後。
ぽつりと零れた幼なげな悪態に、アーサーは肩をすくめた。
「ほう、驚いた。
二年間も扱かれたのに、そなたの口から『清々した』意外の言葉が出るとは。兄上が出て行って淋しいか?それとも大役を押し付けられてやはり不満か?」
「どちらも違いますよ」
気負った様子もなく言い切ってしまうところがこの少年の凄みだと、アーサーは内心唸る。当の本人は気づいていないようだったが。
「あの日——彼、言ったんです。アルヴェル殿下は表舞台に立てるほど強い人じゃないって。彼は僕を使って殿下を役目から下ろした。
……だけどこの二年、僕には殿下が楽になったとは思えませんでした」
アルヴェルが婚姻の意思を反故にした日、諸侯たちの動揺は大きかった。自分の娘を差し出さずに済み内心安堵していたはずなのに。
その動揺が冷めやらぬうちに、アルヴェルは継承の意思さえも棄てた。それは国王である自分と、まだ幼い王子への忠誠心からであったが、あらぬ憶測がなかった訳じゃない。
それでも、顔色ひとつ変えず、淡々と政務をこなし、ローワンを教え、彼の為に根回しまでもを済ませると、ローワンの言った通り"揚々と"王宮を後にした。まるで散歩に出かける様な気軽さで。
「……それじゃあ僕が利用されてやった甲斐がないではないですか」
「はは……そう来るか」
だが、ローワンはもう気付いるはずだ。
言葉にしなくても、離れてしまっても、あの二人の間には切り離せない何かがあることを。
「逆境にいたい奴なんだよ、お前の兄は。
それにこれで堂々と王宮から出られるんだ。今頃きっと答え合わせをしに、ランドフォード辺りへ向かってるんじゃないか?」
「答え合わせ?」
「……いや、こっちの話だ」
「あ、また子供扱いしましたね?」
むっとしたようにローワンが眉を寄せると、アーサーは愉快そうに笑った。
「そう膨れるな。知らぬ方が良いこともある」
「その言い方、絶対教える気ないじゃないですか」
「賢くなったな」
「ご存じでなかったのです?」
即答だった。
アーサーは一瞬だけ目を丸くし、それから堪えきれずに吹き出した。
「ははっ……なるほど。これは失敬」
生意気だが頼もしい。
案外、良い拾い物をしたものだ。
そんな言葉は飲み込んで、アーサーは窓の外へ目を向けた。
遠くに見える夏空は、どこまでも高い。
「まあ、心配するな」
ぽつりと零す。
何の根拠もない、国王らしからぬ戯言を、ローワンが深く追及することはなかった。
その代わり、弟によく似た瞳を細め、かつての友人とよく似た笑い方をする。
「そうですね」
きっと、大丈夫。
今日くらいはそんな風に送ってやりたかった。
*
「……まあ、大人しくしている人ではないと分かっていましたが——」
前を行く主の背に、ノエルドが労うように言葉を添えた。
「とんだ無駄足でしたね。これから行く場所に、すでにいらっしゃるとは」
はるばるランドフォードまで足を運んだというのに、当の本人はすでにここを発っていた。
だが、アルヴェルはむしろその状況を楽しむように、軽く息を吐く。
「まあ、いいさ。継母上にも会えたしな」
一拍置いて、続ける。
「それに——これまで散々、遠回りしてきたんだ。
たった三日や四日遠のいたところで、大差はない」
額の汗を拭いながら、からりと笑うと、アルヴェルは手綱を握り直す。
(……本当に、あの方のことになると機嫌がいい)
ノエルドは、胸の内でそう思いながら、口には出さなかった。
やがて、景色が変わる。
穢れた大地。かつて王妃を、そしてセリウスの命を奪おうとした“アリス”という怪物が生まれた場所。
その記憶を抱えたまま、屋敷へ向かう道すがら、二人の視界に、鮮やかな黄色が広がった。
「おお……見事ですね」
ノエルドが思わず声を上げる。
「ああ」
アルヴェルは、目を細めた。
「向日葵か……」
一面に咲き誇る、ひまわり畑。
まるで、焼け落ちた過去を覆い隠すように。
それでも確かに、ここに根を下ろしている光だった。
黄色の一帯の中——ぽつりと、その姿があった。
長かった髪は肩口で切り揃えられ、鍔広の麦わら帽子にすっぽりと隠されている。
それでも、アルヴェルにはすぐに分かった。
背筋の伸び方も、立ち止まる癖も——あまりに見慣れている。
「セリィ」
弾かれたように振り返った顔は、御子でも、悪魔でもなかった。
「……殿、下」
相手は一瞬、言葉を失ったように瞬きをする。
「なぜ……ここに?」
「悪いか?」
「いえ、そうではなく……」
向日葵が風に揺れる。
沈黙は重くない。
言葉を選ばなくていい時間だった。
「まだ日差しが強いというのに、こんな炎天下にいていいのか」
言いながら歩み寄った。
また逃げられるかと思ったが、意外にも彼は微動だにしない。
僅かに見上げたその顔に、自分の影が落ちた。
水色の瞳が大きく見開かれている。
(……映っている)
アルヴェルは自然に屈んだ。
ためらいも確認もなく、指先が、頬に触れた。
「ほら。やはり赤くなっている」
そのまま指を滑らせ、反応を確認するように、唇に触れた。
ほんの一瞬だけ。
風が向日葵を揺らし、夏の匂いが濃くなる。
逃げ場のない距離に、セリウスが息を詰めるのが分かった。
*
頭の中では、離れるべきだと警鐘が鳴っていた。
今の自分は何の肩書きも持たない。
理由もなく、こうして言葉を交わすことなど許されない。それなのに目の前の男は、まるでついこの間ぶりに会った友人にするかのような軽やかさで近づいてきた。
それだけではない。尚も距離を詰めたと思えば、その手を伸ばし、触れてきた。
こんなのは、友人にだってしない。
「く……来るなと言ったでしょう」
苦し紛れに言った声は、かすれていた。
「言ったか?……それなら、降りてこいと言ったじゃないか」
「……!あ、あれは咄嗟に……!自分でも、よく分かりません」
「はは、そうか。でも、もう遅い。来てしまった」
アルヴェルがそうやって無邪気に笑う度に、胸の奥に閉じ込めた筈の感情が激しく戸を叩く。
頬が熱い。日焼けのせいだけでは説明がつかないほどに。それが分かってしまって、堪らずにセリウスはやっとのことで視線を逸らした。
それでもアルヴェルの手は、まだ離れない。
「王宮を出ることにした」
「え……?」
落とされた言葉の意味が読み取れず、間の抜けた声が出た。
「ローワンも王族らしくなってきたことだし」
セリウスは呆然と男を見つめたまま、聞き返す。
「……それを言うために、ここまで来たんですか」
「うん?」
「今更、文句でも言いに来たのかと」
自分でも何を言っているのか分からない。
アルヴェルは一瞬だけ目を丸くして、それから苦笑した。
「本気でそう思ってるのか?」
戸惑うセリウスの反応など気にも留めず、くすくすと笑う顔に、蔓延っていた疲労の影も、窶れもない。
ああ、良かった。お元気そうだ、と。
「………え、ちょっと待って。今、王宮?を出たって言ったんですか?なに言って……嘘でしょう?」
つい声が大きくなる。
「……落ち着け」
アルヴェルは逆に、小刻みに肩を震わせて笑いに堪えている。
そんな馬鹿なことがあるか。
あれだけの事をして、ようやく立ち位置を守らせたのに。あなたの願いを叶えるために私は——。
またそれか、と胸の奥で誰かが嗤った。
「……」
違う。
本当に……馬鹿じゃないのか。
こんな独りよがりなやり方で、アルヴェルがそれを喜んで受け取るなどと——本気で思った訳でもないのに。
「なんで……」
その目を、向けないで欲しい。
下手な言い訳をいつまで繰り返す気だ、と追い詰められた気になる。
どうかこれ以上分からせないで欲しい。
全てをこの人の為だと信じ込んで——ただ、自分の感情から目を背けただけだということを。
なのに——その手を振り解けそうに、ない。
自分の傲慢さと、愚かさに堪らず笑いが漏れ——なのにどうしてか、声は情けなく震えた。
「……なにやってるんですか」
言葉はアルヴェルに投げたようでいて、その実自分に向いていた。
「すまない。……だが、こうするべきだと思った」
添えられた手と頬の境界線を、涙が溶かしてゆく。
(ああ……やっぱり)
この手だった。この温もりだった——。
自分を死の淵から呼び戻したのは。
誤魔化しようもなく、触れていたいと望んだのは。
瞬きすら忘れ、惚けたままのセリウスに、男は呆れたように笑うと、頬に触れていたのとは反対の手が、セリウスの麦わら帽子ごと引き寄せた。
「近い……」
抗議の言葉は——文字通り飲み込まれた。
「……ッ!?」
心臓が、五月蝿い。
首筋を伝う汗の感覚と、麦わら帽子の匂い。
やがてアルヴェルの伏せた睫毛が上がると、止まっていた時間が動き出した。
なぜここに来たのか、なぜ再び視界に捉え、触れるのか。訊くことすら赦されない問いの答えを、なぜこうも簡単に態度で示すのか。
どんな思いで、断ち切ろうとしてきたのか知りもしないで。
「……すまない、つい。間違えた」
目のやり場に困って俯いていると、アルヴェルが申し訳なさそうに呟いた。
「……いや、間違いではないが、順番が……」
何のことだと顔を上げれば、先ほどまでの余裕は何処へやら、焦った様子でぶつぶつと独り言ちている。
兄王の右腕としてあるよりも、国政の要であるよりも、目の前の相手の反応の方が重要だとでも言うように。
「急に……!びっくりするでしょう!」
叫んでから、余りにも凡庸な反応だったと悔いた。
アルヴェルは一瞬きょとんとして、それから堪えきれないように吹き出した。
「…す、すまん……くっ、くく」
「笑わないでください!」
「いや……だって、……声でか」
肩を震わせながら笑う男に、セリウスはぐしゃぐしゃになった顔を隠すように麦わら帽子を押さえた。
違う。こんなことを言いたいんじゃない。
もっと、ちゃんと。
けれど——。
この男が望む言葉を口にすることは、永遠にないだろう、とも思った。
喉の奥に詰まるのは、みっともない感情ばかりだ。
本当はずっと、そばに居たかった。
触れられなくていい。曖昧なままでいいから。
あの小さな坪庭のような、閉じた世界にいつまでも変わらず——。
こんなもののどこが、愛だ。
「……その顔やめてください」
「うん?」
「……馬鹿にしてる」
結局また、絡め取られてしまう。
アルヴェルという存在は、一人で生きる決意さえ容易く揺るがしてしまう。
だから、逃げたのに。
小さく唇を噛んだ。
「そんなんじゃないさ。……それより、本当に顔も腕も赤いぞ」
目の前で、形の良い唇が弧を描く。
「日陰に入って休憩しないか?」
言葉に詰まるセリウスを、アルヴェルは話を切り替えることで見逃した。付け足すような"共にいるための言い訳"が、単なる思い過ごしではないと強調するようでもある。
「……そうですね。ところで、ここには本当に何しにいらしたんです?まさか私一人に会う為じゃないでしょうに」
緊張が解け、気を取り直すように問うた。
その問いにさえ無意識に線が引かれている。だがアルヴェルは動じない。
うーんと顎に手をやり、少し思案した後——
「何と一言では言えないな。強いていうなら……ここで出来ること全部だろう」
と、淡々と応えた。
「跡目を継ぐに足る器ではなかったんだ。
変わろうとはしたさ。でも無理だった。それならいつまでも陛下や宰相に期待させるべきじゃない。……お前なら、分かるだろ?」
軽く言いながら、肩をすくめる。
"王宮を出た"と言ったその意味の重みを、改めて理解する。そして、そこまで厳しい対応を取らせたのは、他の誰でもないアルヴェル自身なのだろうということも。
「まあ、出来ることをやるさ」
その声音に滲むのは、後悔ではない。
愚直にも前に進もうとする決意だった。
「丁度ここは、あつらえ向きに管理が必要だったし、神の思し召しなのか……セリィ、お前にも会えたし」
男は一瞬だけふわりと笑ったが、セリウスが口を開く暇も与えず振り返ると、わざとらしく声を張った。
「ノエルド!」
少し離れた木陰から、ため息交じりの返事が飛ぶ。
「お話はまとまりましたかー?」
遠くからノエルドが手を振り、駆けてくる。
そして、アルヴェルの数歩後ろに足を揃えて立つと、セリウスに一礼した。
「お久しぶりです、セリウス。
そしてようこそ、旧ルーカス領改め——本日より王領直轄地、レストラ領へ」
セリウスは、二人の顔を順に見た。
王弟と会うのに理由が必要ならば、作ればいい——そんな逃げ道まで用意して。
「ノエルド、あなたまで……」
そんなの、ずるい。
笑いそうで、泣きそうで、胸の奥が、痛い。
「さっ、もてなすぞ。
お前の話を聞かせてくれよ。なぁ、セリィ」
その肩に、ぽん、と手が置かれる。
冗談めかした声。その中に知っている懐かしさと知らない甘さが混ざり合う。
向日葵畑の向こうで、風が鳴った。
今年の夏も、きっと暑いだろう。けれど、例年よりは楽しく過ごせそうだ。




