Desidero ergo sum
広間がざわめきに沈む中で、セリウスは努めてゆっくりと呼吸を繰り返していた。
息苦しい。指先から血の気が引き、ピリピリとしていた。
——ああ、良かった。
やり切った安堵感はすぐに通り過ぎ、胸の奥で目を瞑っていた感情が顔を覗かせた。
(落ち着け、冷静でいろ)
吐き気がせり上がってくる。
胃の裏を、掴まれるような感触。
ここで崩れれば、すべてが台無しになる。
悪魔は、最後まで悪魔でいなければならない。そう、決めたのだから。
セリウスは、小さく息を整え、わずかに口角を上げてみせた。
誰かに向けたものではない、形だけの笑み。
「……恐れ入ります、陛下」
言葉を紡ぎながら、セリウスは無意識に胸に手を当てた。
苦しい。一刻も早く此処から離れたかった。
それでも、拍子木のように感情を切り落とし、
「……ご英断かと」
一礼する。
(大丈夫)
これでローワンは救われる。
王宮も、教会も、民意も、これ以上燃え広がらない。
そもそももっと早くこうすれば良かったのだ。
自分が居なくなっても、彼等が変わらずそこにある限りきっと、新たな王宮の贄が生まれることはないのだから。
セリウスは笑みを湛えて頭を上げた。侮蔑と、嫌悪。その刺すような視線の中に——ふと異質な視線を感じ、意識を向けてしまった。
一瞬だった。ほんの、一瞬。
その、揺れる茜の瞳。
(なんですか、その目は……)
こんなはずではなかったのに。
胸の奥で必死に閉じ込めていたものが、暴れ出す。
(見るな)
理解している目だった。
疑いでも、怒りでもない。独りよがりで自罰的な、こんな愚かなやり方しか選べない自分を、解られている。そういう目。
世界が、ほんの僅かに歪んだ。
セリウスは、ゆっくりと視線を切り、再び歩き出した。
背中に、何百もの視線を受けながら。
*
足音が聞こえなくなっても、宣言の余波がまだ広間に澱んでいた。
誰もが口を開くべきか迷い、動くべきか躊躇している、その隙間でヘリオスはそっと槍を下ろす。
それから、ローワンにだけ聞こえる声で言った。
「大丈夫だ。彼なら上手くやるさ」
「でも……罪を問われたり……」
狼狽えるローワンの表情が他人に見えぬよう、ヘリオスはすかさず一歩前に出た。
「それはない。実際に何かを犯した訳ではない以上、王宮側が勝手に御子を断罪することは出来ないからな。守るのも裁くのも教会の役目だ」
そうだ。それに、教皇とは約束をしたじゃないか。セリウスは大丈夫。彼ならきっと。
ローワンは必死に、自分に言い聞かせていた。
「モルフォンド卿」
ヘリオスの呼びかけに、シャルルは弾かれた様に顔を上げた。ただただ疲労の滲む表情だった。
「……はい」
「彼を。しばらく、お側に」
一瞬の逡巡。
だが、シャルルは深く頷き、ローワンを引き寄せた。
「こちらへ、ローワン」
「……でも——」
言いかけた言葉は、喉の奥で消える。
「今はダメです、殿下」
躊躇いもなくそう呼ぶ様子から、シャルルは初めから彼に気づいていたのだと、ヘリオスは理解した。
決してセリウスを蔑ろにしていた訳ではないだろうに。それでも結局は、セリウス一人が負けを選んだ。
「御子が出ていくのを確認して参ります」
牽制に聞こえない形で、ヘリオスは諸侯に聞こえる声で告げた。
目だけで頷くシャルルの横で、エミリアが怒りと悲しみに滲んだ顔で父親を見つめているのを、ヘリオスは最後まで気づかないふりをした。
(難儀だな)
白い影は、すでに遠ざかっている。追わなければ。ヘリオスは、扉に向かって歩調を速めた。
長い回廊。高い天井に、足音が乾いて反響する。
「セリウス!」
名を呼ぶが、返事はなかった。
数十メートル先に彼の姿を捉えた時、彼の足取りがわずかに乱れた。
「……やり過ぎだろう、ヒヤヒヤしたよ」
その言葉に、セリウスは、ようやく立ち止まった。壁に手を付き、振り返らないまま息を吐く。
「……案外優しいんですね」
声が、かすれている。それを指摘しないのが、ヘリオスなりの優しさだった。
「なかなかいい性格してるな。やりたい放題やりやがって」
よろけかけたセリウスの腕を掴み、歩き出す。
「心配しなくても、あのガキの面倒は見てやるさ。
その代わり、僕にもきっちり対価を払ってもらうよ」
「……はい?」
呆気に取られるセリウスを尻目に、彼は王門とは反対の方へと連れて行く。
「いい加減僕も限界なんだよね……」
裏庭を抜け回廊を突き進み、わずかに窪んだ回廊の切れ目を曲がった先へ——。
*
広間を出るほんの一瞬、視線がかち合った気がした。
遅れて、ヘリオスの背中が扉の向こうに消えていくのが見える。
教会に身を置くのだろうか。子どもの頃とは状況も違って、いっそその方が安全かも知れない。あれでいて世話焼きで人が好きだから、この国さえ出て自由に生きるかも知れない。
どれも都合よく自分を宥める為の想像に過ぎなかった。
王宮は御子を捨てた。
それでいて、表向きはセリウスの言った通りに『末の王弟を王宮へと帰還させた御子』と讃えられ、何事もなかったかの様にシナリオは書き換えられるのだろう。
だが。
冷え冷えとしたあの瞳に、胸の奥はざわめきはより一層強くなり、自分の不甲斐なさとはまた別の、奥底に押しやったはずの絶え間ない不安が押し寄せて来る。
それは、自分の中に宿る御子の加護が訴えるからではない。
当然、啓示でも、神慮でもない。
ただずっと、隣で見てきたからだ。
怒りを抑える横顔も、笑っていない笑みも、誰もいない場所で深く息を吐く背中も。
だから見間違えるはずがなかった。
——彼のその綻びに。
閉会の言葉が、やけに遠くに聞こえた。
広間がゆるやかに動き始めると、アルヴェルもまた、ほとんど反射のように立ち上がる。
だが、一歩踏み出す前にほんの一瞬躊躇した。
咄嗟に顔を上げ、兄を見る。
言葉はない。
けれど、アーサーはすべてを悟った顔で目を閉じると、小さく首を振った。
(……すみません)
アルヴェルは今度は躊躇わず、王族たちの間を縫うように歩き出した。
気づけば、その足は早まってゆく。
広間の出口には、ノエルドが立っている。
「……止まるべきなんだろうな、本当は」
驚くほど情けない声だった。
そんなアルヴェルに、ノエルドはわずかに肩を竦めてみせる。
「そうですね」
そして、困ったように笑った。
「私も、きっと止めるべきなんでしょうが」
言葉はそこで終わる。
つい、とノエルドは一歩引いた。
アルヴェルは一度だけ振り返り、ざわめく広間を視界の端に収めると、また静かに歩き出す。
回廊に出ると、足音は更に急いた。
もう、役割なんてどうでもいい。
ただ一人の人間として、もう一度。
「…………」
——もう一度、何だ?
王門へと急いでいたはずの足が、ぴたりと止まる。
会って、行くなどでも言う気か?
どうにかしてやるから、と。
あるいは、セリウスに罵って欲しいのか。
何様のつもりで?
自分が楽になりたいだけじゃないのか。
生きていてさえすればいいと、こんな執着は手放すべきだと思ったのに。
「……はぁ」
アルヴェルは足を止め、深く息を吐いた。
視線の先に、懐かしい場所へ続く回廊が見えた。
するとその奥から、思いがけない人間が出て来た。
「ヘリオス……?」
男はアルヴェルの視線に気がつくと、呆れた様子で近付いてくる。
「いやぁ、ちょうどいいところに——手間が省けた」
軽い声だった。
「……なぜ、そこから出てくる」
眉を顰めるアルヴェルを逆撫でるように、ヘリオスは肩を竦めて笑う。
「殿下こそ。こういうとき、つくづく行動がワンパターンなんだもの」
言って、人差し指をアルヴェルの胸に突き刺した。
「どうせ、考え無しに飛び出したくせに、怖気付いてそこで突っ立ってたんだろう?」
「……」
胸を突き刺していた指が離れたと思うと、その指は握り込まれ、アルヴェルの胸を今度はトン、と軽く叩いた。
ヘリオスはそのまま、視線を回廊の奥へやる。
「早く行け。
仕方ないから、しばらく誰も通らないようにしといてやる」
アルヴェルは、一瞬だけ唇を噛み、それから何も言わずに先を急いだ。
*
早く去らなければ、と理性は言っていた。
けれど、ヘリオスに半ば強引に連れてこられたこの場所は、まるでそうはさせまいとでも言うようにセリウスの足を縛り付けて離さない。
王宮の奥にひっそりと息づく、いつもの庭。
低い石垣と低木。
閉じた空に、秋風が香草の匂いを運んでくる。
何度も足を運んだ、見慣れた場所だった。
(……来るつもりなど無かったのに)
せめてもの餞別のつもりで力を解くと、空気がかすかに揺らぎ、庭の草葉がそれを知って身を伏せる。
このまま全部を出し切れば、楽になれるのだろうか。
自己憐憫?
馬鹿馬鹿しい——思わず笑いが零れた。
そんなことより。
きっと、また深く傷つけたに違いない。
あの少年を利用してまで。
でも、そうでもしなければアルヴェルが壊れてしまうと思った。
いや、違う。
そんなものは、ただの言い訳だ。
彼の覚悟をへし折ってでも。
正しさごと引き剥がしてでも。
アルヴェルを——自分の知っている姿のまま、留めておきたかっただけだ。
真の王たる兄を慕い、必死に追いつこうとしていた、眩い太陽。
本当は弱いのに、勇敢であろうとした——私の光。
初めて会った、あの夏の日から。
彼だけが、ずっと特別だった。
どうしたって、心が会いたいと叫ぶ。
もう何も言ってやれない相手なのに。
胸が苦しい。
呼吸をするたび、内側が軋む。
激しい耳鳴りが、思考を削る。
(……なんて浅ましい)
アルヴェル。あなたは知らない。
私は——御子などではない。
そんなものを背負えるほど、清廉でも純真でもない。
弟と呼ばれ、自惚れて。役目などなくとも、自分という人間で隣に立てるのではないかと——そんな都合のいい夢を、抱いた。
けれど結局は。
あなたが守り続けてくれた「セリウス」という存在を、私は——
その手を離させないために、自分の手で“悪魔”に堕とした。
「すみません……」
手を離した癖に、優しく笑うから。
覚悟を決めると言った癖に、情けをかけるから。
あなたが与えてくれたものを、役目ではなく——ただの情として、欲しいと思ってしまった。
そのとき、背後で小さく砂利が鳴った。
「………っ!」
振り返る前から分かってしまう。
足音の重さも、間の取り方も。
なのに、だめだと分かっていて、身体は裏腹に振り返った。
「セリウス……」
茜の瞳が、自分だけを見つめている。
「……ぁ」
歪みを隠すための微笑が崩れ、なけなしの理性が、音を立てて砕けた。
「……ここまで、降りて来て……お願いです」
塞いだはずの声が、指の隙間から零れ落ちる。
遅れて、涙が手を濡らした。
何を願っている。
引き止めたいわけじゃない。
一緒に来てほしいわけでもない。
ただ、否定しないでほしかった。
——ここまで追って来た、その事実を。
アルヴェルが砂利を踏む音がして、セリウスは口を塞いでいた手を離し、咄嗟に制す。
「だめです……!」
自分ごときの言葉で、アルヴェルは律儀に停止する。これでいい。これ以上は、もう戻れなくなる。
互いに一歩踏み出せば届く距離を、セリウスはそのまますり抜けた。
思った通り、アルヴェルは手を伸ばさない。
なのにどうして、その事実が、胸を掻き裂いた。
「行け、セリウス」
——背中に落ちた声。
(……そうか)
期待していたのだと、遅れて理解する。
彼の正しさが好きだった。
それなのに、その正しさを——自分のために歪めてほしいと願っていた。
役割でも、名でもいい。
縛ってくれて構わなかった。
気づかないふりをして、そのままでいてほしかったのだ。
そうすれば、この感情を“仕方のないもの”として誤魔化せた。
それでも——。
「……愛している」
一拍遅れて届いた言葉に、セリウスは息を呑む。
ああ、どこまで残酷なのだろう。
今だってあなたを——私のものにしたいのに。
自分でさえ直視したくなかった醜い欲を、あなたはもう見逃してもくれない。
それでいて、あまりにもあなたらしく、誠実に、私を手放そうとする。
「行け、もう……縛られるな!」
喉の奥が焼けるように痛んだ。
「……っ」
セリウスは逃げるように去った。一度も振り向かず。
振り向けば、きっと——。
白い背が、静かに王門の向こうへ消えていく。
それでもなおその声だけが
罪のように、いつまでも離れなかった。




