Epilogue
王宮に末の王弟が戻って、五年の月日が流れていた——。
数週間前から準備に追われ、緊張と期待に満ちた王宮の空気も、式典を終えてしまえば厳粛な雰囲気から解放される。
代わりに諸侯たちの値踏みや計算の目配せ、令嬢たちの色めき立つ囁きが混ざり合い、王宮はふたたび日常と非日常の境目に揺れるような、穏やかではない賑わいに満ちていた。
「殿下。ランドフォー
ド卿から文が届いております」
扉の脇に立つ侍従は、静かにそれだけを告げた。
「ああ、机に置いておいて。あとで読むよ」
声の主は続き間の方から返す。
夜会に向け、式典用の正装から夜会用の衣装に色直しをしているのだろう。
侍従は返事を受け、入り口から正面奥の机へと歩を進め、折り重なった書籍の山の上に書簡をそっと置いた。
「今のうちに見ておかなくて良いのですか?今日はいつお戻りになるか分かりませんよ?」
視線を続き間に向けると、侍従は思わず息を詰めた。
——そこにいるのは、主としては全く予想外の姿だった。
「……って、何をしていらっしゃるのです?何も準備できていないではないですか!」
一時間前、侍女が着付けに来ていたはずなのに、ローワンは上衣を脱いだだけの姿で窓際に立ち、黙々と本を読んでいる。
「え?あ、ごめんエドガー。……もうそんな時間だった?」
咄嗟に顔を上げる。
悪気のなさが、さらに侍従の手間を増やす。
やれやれ、と大きくため息をつき、エドガーは切り替えるように言った。
「さあ、着替えますよ、ローワン殿下」
ローワンは言われるまま礼服の釦を解いてゆく。
鏡越しに落ち着いたマルーンの衣装が目に入った。灯に照らされると上品な艶やかさがある。
「この色、やはり見事ですね。殿下の瞳の色にとてもよく似合って」
いつかの聞き覚えのある褒め言葉に、ローワンは胸の奥で僅かに嬉しさを感じながら、短く「そうかな」とだけ返した。
「そういえば、アルヴェル殿下はもう?」
問いかけに、侍従は穏やかに答える。
「はい、先ほどお帰りになりました。用事はすべて済ませたそうです」
「相変わらずだ」
「もともと夜会は好まれませんし……それに、殿下を立てたいのでしょう」
「それも、相変わらずだね」
夜会用の上衣が、静かに肩に掛けられる。
仕立ての良い布が身体に沿い、留め具が一つずつ整えられていくたび、鏡の中の少年は少しずつ「殿下」の輪郭を帯びていった。
ローワンは、鏡に映る自分を見つめる。
まだ若い。
背丈も、肩の線も、かつて隣に立っていた人影には及ばない。
それでも——。
王宮に迎えられてから幾度となく見てきた背中。
命令をせず、ただ黙々と決断する場所に立ち続ける背中。誰かが声を荒らげる前に場を収め、火が上がる前に、水を回すような采配。
もはや王弟としてではなく、一介の忠臣として。
ようやくローワンが判断に慣れてきた三年前まで、王弟にしかできなかった仕事を黙って引き受け続けてきた人。
(……逃げたわけじゃない)
鏡の中の自分に、ローワンはそう言い聞かせる。
あの人は、退いたのだ。
次が立つ場所を空けるために。
襟元を整える指先がわずかに震えた。
それを隠すように、ローワンは息を整える。
鏡の中の瞳は、もう迷っていなかった。
——理想の王弟。
感情に溺れず、私欲を見せず、必要とあらば冷酷でいられる存在。世が望むその像に、自分が当てはめられていることを、ローワンはよく知っている。
(……だからこそ)
この立ち位置から、崩すのだ。
誰にも奪われず、誰にも与えられないものを、選び取るために。
ローワンは、鏡に背を向けた。
回廊の向こうから、かすかなざわめきが届いてくる。
祝福と、噂と、期待と、恐れ。
すべてを受け取る準備は、もうできていた。
扉を出ると、空気が変わった。
王宮の回廊は広く、天井は高い。
にもかかわらず、今夜ばかりは人の気配と熱が壁に溜まり、歩くたびに視線がまとわりつく。
ローワンは歩調を乱さない。
その背中に、囁きが追いついてくる。
「……本当に、あの方が?」
「ええ。アルヴェル殿下が継承を放棄して、弟殿下を立てると」
「まだお若いでしょう。それに王太子もまだ幼いというのに」
「だからこそ、操りやすいと見る向きも……」
「どうせ兄殿下が裏で手を引いているんだろ。血が繋がっているだけで、弟殿下は所詮平民も同然なんだから」
声は低く、けれど隠す気はない。
聞こえることも、計算のうちなのだ。
「アルヴェル殿下はやはり夜会にはお出にならないって」
「旧ルーカス領へ戻られたそうだ。もうやる事もないだろうに。あれから何年経つ?」
「三年だったか……。もっと掛かると思っていたよ」
「存外、王宮の外の方が向いているのかもな」
最後の声だけが、妙に確信めいていた。
「いやあ、今日は賑やかだね」
回廊の曲がり角を越えたところで、足音が並んだ。
あまりにも気軽な声に、ローワンは思わず横を見る。
「……ヘリオス殿」
「おや、随分と硬い顔だ。初めての夜会だろ?」
肩をすくめ、気楽に歩調を合わせてくる。
「こういうのはさ、もっと胸張って歩けばいいんだよ。君は今日の主役なんだから。
ね、ローワン殿下?」
ヘリオスはちらりと横目でローワンを見た。
「兄殿下が継承権を捨てた理由、百通りくらい噂が飛んでる」
「……あなたは、どう思ってる?」
「僕?」
ヘリオスは一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「うーん……そうだなあ。
違うやり方を、試したくなったんじゃないかな?」
それから、軽く笑う。
「そして今度は、君の番ってわけだ。さあ……殿下は何をして愉しませてくれる?」
「……もう既に楽しんだじゃないか」
「いつ?」
「ほら、ここに一緒に入った時だよ」
「は、楽しんでたって?まさか!……もう二度とごめんだ」
広間へ続く扉が、もうすぐそこに見えている。
音楽の輪郭が、はっきりと形を持ち始める。
ヘリオスは歩みを緩め、立ち止まった。
「じゃあね、殿下。僕は壁際で様子を見る派だから」
片目をつむり、軽く手を振る。
「そう気負わず、楽しんでよ」
ヘリオスは片手を振り、壁際へ消えていった。
ローワンは一度だけ深く息を整える。
——選ぶ。
守る。
壊す。
すべては、この先にある。
ふと、遠い日のことを思い出した。
あの日、自分はどうしてルナを追いかけたのだろう。
どうして塀を越えたのだろう。
今でも分からない。
けれど。
あの日の自分を、後悔したことは一度もなかった。
ローワンは小さく笑う。
そして、広間へ続く扉を押し開けた。
「……遅かったじゃない」
責めるようで、どこか安堵の混じった声。
ローワンは肩をすくめた。
「ごめん。少し遠回りをしてた」
ローワンは笑う。
作りものでも、軽口でもない、いつもの調子で。
*
林の向こうに広がる花園は、かつての静けさが嘘のように活気に満ちていた。
柔らかな陽射しの下、色とりどりの花の間を子どもたちが走り回っている。
「先生、元気だった?」
「ええ、元気でしたよ」
「ねえ、先生、遊んで」
「だめ、次はわたしの番よ」
せがまれるままに、医師は腰を落とし、追いかけっこに付き合った。
息を切らした子どもたちが笑い転げ、やがて満足したようにその場に倒れ込む。
気づけば日が傾き、風が少し冷たくなっていた。
「リディア様には、もう会いましたか」
赤毛の女中が、眠り始めた子どもたちにブランケットを掛けながら声をかける。
「うん」
医師の返事は短かったが、女中は満足そうだった。
「“息子から嬉しい知らせが届いた”って、ご機嫌でしたよ。本当は、そばにいたいでしょうに。
生きているって公表してしまえばいいのに……なんだか、お可哀想で」
そんな風に思ったままを口にする女中に、医師は小さく笑ってから穏やかに首を振った。
「シンディ。
少なくとも彼女はそれを望んではいないと思うよ。それを分かっているから陛下も事実を伏せた。ランドフォードの平和とローワン殿下のために。少なくとも、可哀想かどうかは、私たちには決められないことだ」
女中は一瞬だけ言葉を失い、それから「そうですね」と小さく笑った。
数日後、医師の姿は葡萄畑にあった。
収穫の時期を迎え、領地には甘い香りが満ちている。
屋敷の女主人は、一人娘の夜会支度に追われていたが、通りに医師の姿を見つけると、すぐに外へ駆け出した。
「ちゃんと食べているの?こんなに痩せてしまって。手紙くらいちょうだい。あなたの父上も叔父様も、みんな心配しているわ」
「すみません、母上。でも……何も、心配はいりません」
医師は少し困ったように微笑む。
「なんとかやっていますから」
それ以上は言わず、馬の手綱を引いて歩き出す。
振り返ることはなかった。
次は、どこへ行こうか。
医師は小さく息を吸い、進路を決める。
「……少し、寄ってみようか」
王都の門で身元確認を受けたが、憲兵は医師の奇異な見た目にわずかに眉をひそめただけで、深くは追及しなかった。
花街へ続く路地に入り、医師は立ち止まって花を手向ける。
静かに祈るでもなく、ただそこに置くだけだった。
人の気配に振り返ると、格子窓の向こうから、麗しいムサがこちらを見下ろしていた。
「……やあ。久しぶりだね」
医師の言葉にムサは僅かに目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「先生……、よく気付きましたね。お変わりありませんか」
「ええ、まあ。いろいろありましたが。あなたもお姉さんも、お元気ですか」
「お姉様は、二年前に身請けされたんですよ」
「……そう」
祝いの言葉を述べるのが適切なのか、些細な事が引っ掛かかり、医師は曖昧に言葉を切った。けれどその一歩引いた態度が医師の気遣なのだろうと、ムサは理解していた。
「……ええ、」
一拍の沈黙の後、ふと思い出したように尋ねた。
「先生、今日はお祝いで王都に?」
「お祝い?」
「ええ。あら、ご存じないのですね」
彼女は微笑んだ。少女の頃のあどけなさが、跳ね上がった目尻に残っている。
「今日は、第二王弟殿下のお披露目式ですよ」
医師は一瞬だけ、言葉を失った。
「……ああ、それで」
小さく納得して、王宮の方角へ顔を向けた。
「もう、そんなに経つのか」
遠くで、鐘の音が鳴り始めていた。
最後までお付き合い頂きありがとうございます。
セリウスもローワンも新たな人生はまだまだ始まったばかりですが、ここで一旦のおしまいです。
次はseason2にて会いましょう〜。




