Dilige et fac quod vis(1)
朝靄の中、三人は王宮の片隅に立っていた。
人の気配は薄く、白い霧が石畳を低く這っている。まるで、この場所だけが世界から切り離されたようだった。
「結局、誰も妹君が来る日を教えてくれなかったねぇ」
ヘリオスの声音は軽い。冗談めかしているようでいて、その裏にある棘を、セリウスは聞き逃さなかった。
「まあ、無理もないですよ」
セリウスは、淡々と答える。
「叔父はともかくとして、父は……私に会ったら揺らいでしまうでしょうから」
感情ではなく、ただの事実の列挙だった。
そう言い切れる声の平坦さが、かえってヘリオスの胸に引っかかる。
横顔を盗み見る。
朝靄に浮かぶその輪郭は、思っていた以上に細い。痩せた首筋に目が留まり、ヘリオスは思わず視線を逸らした。
「……随分と、愛されている自覚があるんだね」
意外だったのだろう。セリウスは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「養父は、ああ見えて激情家なんです。たぶんエミリアの件も、一度は怒鳴ったはずですよ」
笑みを浮かべたまま、セリウスは虚空を見つめて付け足す。
「でも結局は叔父も含め、王宮に頭が上がらない。今に始まった話ではありません」
ローワンの存在さえ明らかにならなければ、この状況は王宮にとって都合が良かった。
アルヴェルとは緩く切り離され、所在だけは把握されている。次期王の名を傷付けず、それでいて王族の身に何かあればいつでも引きずり出せる、そんな位置。
まさかセリウスが本気で少年を王族へ押し上げようとしているだなんて、王宮の奴らは微塵も思っていないだろう。
「あの、セリウス様」
ローワンの声は、わずかに震えていた。
「何?」
セリウスは努めて穏やかに問い返す。
「もし、ダメだったら……」
「おや、随分弱気だ。元はと言えば、君から言い出したことなのに」
セリウスは尻窄みになった少年の言葉を拾う様にそう言って、彼の肩に手を置いた。
ローワンの背丈はいつの間にか随分と伸び、視線の高さも、もう遠くない。それでも心はまだ、子どもと大人の境目を行ったり来たりしていた。
「まずは、君の言葉で伝えなさい。その先で起きることは、私が引き受けるから」
セリウスの瞳はやはり揺らがない。
何かを決意しているはずで、それでもとうとう最後までセリウスは自分の事を語ろうとはしなかった。
*
その日は、王宮にしては静かだった。
鐘は鳴らされず、広間にも華やかな装飾はない。
あくまで内々の場――王弟アルヴェルの妃として名が挙がった娘を、王族と重臣に披露するためだけの集まりだ。
それでも、居並ぶ顔ぶれは重い。
直系の王族、宰相をはじめとする政の要。
この場で否を突きつけられれば、話はそこで終わる。
王妃の席は、空いたままだった。
誰も口には出さない。だが、視線だけが、何度もそこをかすめていく。
(……やはり、今日もか)
重臣たちの間に、言葉にならない憶測が行き交った。
体調不良。そう説明されてはいるが、すでに幾度目かだ。そして、その不在が続くほどに、王宮の決定は目に見えて早くなっていた。
これまでのらりくらりとしていた王弟が、婚姻の意向を表明してから今日まで、あまりにも滞りがない。
(だからか)
誰かが、心の内で納得する。
王妃が表に立てない今、王族の均衡を保つためには、王弟の立場を早急に固める必要があった。
情よりも、安定。議論よりも、決定。
この場に集められたのは、“祝福”のためではない。承認のためだ。
モルフォンド侯爵の姪に白羽の矢が立ったのも納得がいく。
余計な野心を疑われない程度に若く、過不足のない家柄の娘。長く忠誠を誓ってきた一族であり、王宮の事情もよく分かっている。きっと誰も文句は言わないだろう。
それは一刻も早く決めたい、という王宮側の焦りにも思えた。
視線が自然と王弟アルヴェルへと集まった。
彼は、玉座の方を見据えたまま身じろぎ一つしない。覚悟を決めた、あるいは——決めさせられている顔か。
そのどちらであっても、今日という日は、すでに動き出していた。
会場に主要な面々が出揃うと、ようやく玉座に座す現王、アーサーがゆっくりと背を伸ばした。
国王としての威厳を誇示するでもなく、しかし曖昧さも許さない、いつもの所作だ。
「本日は、集まってもらい感謝する」
柔らかで、それでいてよく通る声。それだけで、私語は完全に消える。
「王弟アルヴェルの婚姻に先立ち、モルフォンド家令嬢、エミリア・モルフォンドを迎え、王族ならびに重臣各位への顔見せの場とする」
あくまで、淡々と。祝意を煽る言葉はない。
——承認の場。それを、誰もが理解した。
アーサーは一度だけ視線を巡らせ、空いた王妃の席に触れないまま続ける。
「これは、決定ではない。だが、王宮としての意思を確認するための、重要な節目だ」
節目。
選択肢はある、と言いながら、進む方向はすでに定められている言葉だった。
「入ってもらおう」
合図に、扉が開く。
先に現れたのは、シャルル・モルフォンド。
温厚で誠実な紳士は、今日に限っては僅かに厳しさを眉間に宿している。
場の空気を正確に測りながら一礼する彼の、その半歩後ろで、水色が揺れた。
彼の一人娘。エミリアが、姿を現す。
白い肌に似合う淡い色合いのドレス。
過剰な装飾はなく、王宮に迎えられる者としては慎ましいほどだ。
だがその慎ましさこそが、ここに集う者たちの目を引いた。
(……若いな)
(だが、軽くはない)
(覚悟は、ある)
視線が、値踏みするように走る。
エミリアは、それをすべて受け止めながら、一歩一歩、決められた位置まで進んだ。顔は、少し強張っている。だが、決して俯かない。それもまた、試されていると知っているかのように。
王の前で止まると、シャルルが名を告げ、定められた礼をとる。
その一連の動作を、アーサーは黙って見ていた。
(悪くない)
率直な感想だった。
波風を立てず、アルヴェルの隣に“置ける”存在であればいい。
アーサーの視線が、わずかにアルヴェルへと流れた。
弟は、正面を見据えたまま動かない。感情を表に出さぬよう努めてはいるが、その肩の硬さが、内心を雄弁に語っていた。
(……気負いすぎだ)
王弟としての責任。
王族の末席を支えねばならぬという意識。
それらを、彼は一人で背負い込もうとする。
だからこそ、妃を定める必要があると思っていた。それは今でも変わらない。だが。
(さて、どうなるか……)
アーサーは誰にも気付かれない程、小さく笑った。
「エミリア嬢」
静かな声が広間に響いた。
「緊張しているか」
試す様な問いかけに、エミリアは一瞬だけ息を吸い、顔を上げる。
「……はい。ですが、ご期待に応える所存でございます」
物怖じしない返答に、広間の空気がわずかに緩んだ。
——少なくとも、この場を壊す娘ではない。今日という日は、予定通りに終わるだろう。
誰もがそう判断した、その時だった。
「あ!こら、待ちなさい!」
広間の奥で、空気がほんのわずかに揺れた。
慌てるような声が聞こえた次の瞬間――ガン、と鈍い音が響き、扉が押し開かれる。
ざわめきが、一斉に広がった。
「な……っ!?」
誰かが声を上げた。
重臣たちの視線が、同時に扉へと向く。
玉座の前に立つエミリアも、震える手を握りしめたまま、半拍遅れて振り返った。
「待って…待ってください……!」
切迫した声が、広間に転がり込む。
「ローワン!?」
最初に名を呼んだのは、シャルルだった。驚愕と困惑がない交ぜになった声が、広間に落ちる。
その一声で、広間のざわめきが、別の色を帯びた。
(……子ども?)
(いや、今、名を……?)
重臣たちの視線が、一斉に集まる。
扉の前に立っていたのは、まだ少年と呼んで差し支えない年頃の子だった。
近衛に制止されながらも、必死に前へ出ようとする姿。整えられてはいるが、王宮の作法には不慣れな立ち居振る舞い。
だが。
その顔を見た瞬間——何人かの表情が、僅かに強張った。
(これは……)
誰とはなしに、唾を飲む。
"血筋"——否応なく、そう思わせる輪郭だった。
玉座からその様子を見下ろしていたアーサーは、指先を組んだまま、静かに目を細めた。
教会からの正式な照会は、まだない。それでも、市井を巡る話が、ついに王宮の中へ“入り込んだ”。
少年は、近衛の腕を振りほどこうとしながら叫ぶ。
「僕は……王宮に申し上げたいことがあって来ました!」
するとそれまで呆気に取られていた数人が、少年の動きを抑えんとしている兵士に向かって怒号を飛ばす。
「師団長がいながら、こんなネズミを入れよって、何をしておる!」
「早く取り押さえろ」
口々に声が上がり、ローワンの言葉はあっという間に掻き消された。
非難と苛立ちが重なり、広間の空気が乱れ始めた頃——。
「静粛に」
音もなくアーサー王が立ち上がり、短く告げる。
それだけで、広間は水を打ったように静まり返った。
「まあ、せっかく来てくれたんだ」
玉座から、ゆっくりと視線を巡らせる。
「聞こうじゃないか聞くだけなら、何も騒ぎにはなるまい。皆も、気になっていたところだろう?
——良いかな?モルフォンド卿」
その相貌は、穏やかに笑みを湛えていた。が、黄金色の瞳は有無を言わせない圧がある。
「……異論、ありません」
半ば狼狽えるようにそう返す父を、エミリアは信じられないという顔で見た。
一方でローワンは国王に見下ろされ、背中が粟立ち、呼吸が浅くなる。
だが逃げるという選択肢は、もうない。
「さあ……少年。思う存分やって来い」
不意に、自分を羽交い締めにしていた兵士の腕の力が、ふっと緩まった。
そして、離れる直前、耳元へ顔を寄せて小さく囁く。
「セリウス殿も見守ってる」
ローワンにしか見えない角度でほんの一瞬だけ笑った後、男は一定の距離を取り、槍を構えた。切っ先は、確かにこちらを向いている。
——だが刃は、守るためにそこにあった。
ローワンは一度目を閉じて、深く息を吐いた。
そして再び、目を開ける。視線の先にエミリアがいた。
"王族の都合に合わせて従うだけの一族なんて滅んでしまえばいい"——かつて、そう言い放った人。
不安なはずなのに、許せないはずなのに、必死にその思いを飲み込もうとしている——不器用で、気強がりな人。
遠いと思っていた彼女は、もう目と鼻の先にいた。
「——では」
低く、乾いた声が広間に響いた。
玉座の脇に控える宰相が、無機質な視線をこちらに向ける。
「その者、発言を許可する」
一斉に注がれる視線に、背中を冷たいものが走った。それでも、ローワンは姿勢をくずさない。
——立つと、決めた。
もう一度、胸の奥でそう繰り返し、ローワンは一歩、前に出た。




