To do is to be
ヘリオスは、分かりやすく不機嫌を足音に滲ませながら、王宮の回廊を歩いていた。
団長室へ向かう廊下は、いつもより長く感じる。
視線が絡み、声が止まり、空気だけが重く残る。
どこへ行っても、噂、噂、噂。
別にそれ自体は今に始まったことじゃない。
いつの世も、人は“物語”を愛する生き物だから。
ただ——今回のは質が悪かった。
(……散々な言われ様だ)
ヘリオスは眉間を押さえた。
白い御子。
悲劇の王弟。
隠された王家の血。
いかにも俗っぽく、興味をそそるラベルだ。民衆はそれを“面白い物語”として消費している。
だが実際、水面下で起きているのはそんな生易しいものじゃない。
王位継承に、教会との均衡、王弟派と国王派の分裂。そして——ティアベアラーという存在そのものを巡る綱引き。
火の扱いを誤れば、国が割れる。
(当人たちに、その気は全くないのにねぇ……)
アルヴェルは王になどなりたがっていない。
陛下も弟に絶大な信頼を置いている。
付き合いは短いが、セリウスが権力欲とは程遠い人間だと断言できる自信もあった。
あの少年は、まだよく分からない。だが、それでもまだ十三の子どもだ。
なのに周囲だけが勝手に意味を見出し、勝手に旗印にし、勝手に戦を始めようとしている。
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように呟いた、その時だった。
「あ! 良かった! 師団長!」
声変わり特有の掠れた声と共に、軽い足音が駆け寄ってくる。
振り向けば、予備兵の制服。
「おー、ダンテか」
予備学校の生徒がここまで来るということは、使い走りだろう。そう判断して、ヘリオスは歩調を緩めた。
「お前の後見人殿も、随分人気者だなぁ」
皮肉っぽく肩を竦める。
「——ひどい言われようだ」
冗談めかしたつもりだった。
けれど、口にした瞬間、自分の胸の奥がざらりと嫌な音を立てる。
「あ、の……」
呼び止める声が、いつもより幾分弱い。ダンテは口を開いたまま、一瞬だけ言葉を探す。
ほんのわずか、眉が下がる。
傷ついた、と言うほどではない。けれど——冗談を受け流せる程の余裕がない。そんな表情だ。
「どうした?用があるなら、早く言え」
いつもと変わらぬ調子で促すと、少年は一拍置き、胸元から封書を取り出した。両手で、丁寧に。
「……身内同然の人を、笑われるのは好きではありません」
視線は合わせない。だが、控えめに言った声は揺れていなかった。
ヘリオスは一瞬、目を細める。
「ふん。素直でよろしい」
鼻で笑い、封を指先で挟んで引き抜く。
紙の乾いた感触。送り主の名は無かったが、宛名である自らの名を記すその文字が目に入った瞬間——息が止まった。
嫋やかで、流れるような筆致。
静かな見た目に反して、自由で強かな性格を現すそれ。
見覚えがありすぎる。
「……おや」
ヘリオスの声が、わずかに跳ねた。
団長の感想を静かに待つ少年の様子に、この手紙が誰からのものであるか、初めから見当がついていたのだと気が付いた。
「ラブレターだった。それも、熱烈なね」
一応それだけを告げてやり、ヘリオスはすぐに踵を返した。
「……は?」
そのまま、来た道を引き返す。
ダンテはその背を見送ったまま立ち尽くしていた。
胸の奥には、説明のつかない不安が残る。
自分の知らない場所で、親友が知らない人間のように語られ、揉まれ、遠ざかっていくのを感じながら、けれど、自分は何の助けにもなれないでいた。
だからと言って、追いかけても、きっと届かない。
ヘリオスについて行くのも、恐らくは違った。
(……お願いします、師団長)
強く握りしめた手に、じわりと汗が滲む。
悔しさと焦りに耐えながら、心の中で願った。
(ローワンを……セリウス先生を、助けてください)
廊下の向こうへ消えていく背中は、振り返らない。それでもダンテは、祈るようにその背を見つめ続けていた。
*
馬に跨った瞬間、ヘリオスは短く息を吐いた。
指先に残る紙の感触が、まだ消えない。
(……だから、月の精なんだ)
脳裏に、あの一文が鮮やかに浮かぶ。
"ランドフォードで頂戴したお言葉を
真に受けてもよろしいですか——?"
「……あれを、持ち出すか」
苦笑とも、呆れともつかない声が漏れた。
互いに腹の内を探り合っていた頃。軽口のつもりで放った言葉だったはずだ。それを、今になって——。
手綱を引き、馬を走らせる。
(君も相当追い詰められているってことか……)
胸の奥で、嫌な確信が静かに形を取った。
馬の腹を蹴れば、応じるように、地面が後方へと弾け飛んだ。
風が頬を打ち、外套が大きく翻る。
視界が流れ、景色は線になる。
考えを止めるには十分すぎる速度だが、思考は逆に研ぎ澄まされていった。
噂の渦中だ。
王は——御子を酷使した冷酷な王として語られ、
王弟は——御子を王宮から解放した理想家とも、
あるいは王位を狙う策士とも囁かれている。
王宮は火消しに走り、教会は沈黙を守る。
その沈黙すら、憶測の燃料にされながら。
誰もがどちらかを守るふりをして——実際には、自分の立場を守ることに必死になっている。
なのに。
その中心にいる月の精だけが、誰にも触れられない盤上の外で、ぽつりと立ち続けている。
否。立ち続けることを、選んでいる。
「これもあいつの為か?」
ティアベアラーを、王宮の贄にも教会の偶像にもしたくない。ただの一人の人間として生きられる道を残したい——。
あの男の、あまりに不器用で愚直な願いを叶える為に。
今更セリウスが王宮へ戻れば、“王宮が一人の御子を枯れるまで酷使せんとしている”と、ますます騒がれるだろう。
それは、そのまま王弟派の旗印になる。
教会へ戻っても同じだ。
結局は、“王宮から切り離された御子”という証明にしかならない。
——だから、セリウスは動かないのだろう。
アルヴェルの理想は、きっと正しい。だが世の中は、そんなに甘くない。長い間当たり前になっていた在り方を変えることは容易ではなかった。だからこそアルヴェルも国王も、表向きは慣習に従いながら、セリウスを弟と称し擁護してきた。
(それを分かっているから、大人しく護られていたんじゃなかったのか……?)
“御子らしく”黙って消耗していれば、誰も困らなかった。
だが君は、人のように望み、人のように愛し、人のように傷つき、逃げてしまった。
だから人々は、勝手に意味を与えたのだ。
王族の胤裔を誑かした。王弟を操っている。あるいは、すべてを裏で動かす影なのだと。
――誰も、当人の意思など見ようとしない。
その所為で、アルヴェルは理想を守ろうとして動けなくなり、ローワンは知らぬ間に矢面へ立たされ、挙句、君の妹まで“火消し”のために差し出されようとしている。
「……それで、自分は動けないから、僕、ね」
乾いた笑いが、喉の奥で弾けた。
風にさらわれ、誰にも届かない。
(光栄だよ。たしかに、僕にしか頼めない)
王宮の近衛師団長としてではなく、一個人として。アルヴェルの願いを壊さずに動ける人間として。
(ふざけるなよ)
君ひとり黙って耐えれば、あいつの理想は守られるのか?
自分の覚悟の所為で狂わされた彼らを——その罪を、お前だけが背負って生きればいいと、本気で思っているのか。
ヘリオスは手綱を強く引いた。
馬が短く嘶き、風を裂く声が、低く落ちる。
「尻拭いくらい、自分でやれ」
分かりきった結末を変えるなら、必要なのは沈黙じゃない。
*
屋敷の周りに人気はなく、それが一層『安易に触れてはならない』類の噂だと物語っている。
ヘリオスは馬を下りると、足早に屋敷の扉の前に立つ。いつも立っているはずの従者さえいない。
だが意外にも、ノッカーを叩くとすぐに扉は開かれた。
急くように早鐘を打つ心臓とは裏腹に、ヘリオスはゆったりとした声で尋ねた。
「セリウス殿は?」
小さく開いた扉の向こうで、女中は一瞬、視線を彷徨わせた。
ほんの僅かな逡巡。それだけで、もう何かを聞かされているのだと分かる。
「いま、書斎に。少しお待ちを……」
拍子抜けするほど、あっさりした返答。
「……へえ、逃げちゃったかと思った」
冗談めかした声とは裏腹に、胸の奥がひやりとする。
(ちゃんと居るのか……まあそうか)
暴発騒ぎ以来、噂ばかりが先走り本人の姿だけが掴めなかった。実在しているのかと、疑いたくなるほどに。
「それで——君は、僕がここに来た理由、知ってる?」
応接間に通され、ソファに腰を下ろす。
茶を置いた女中のシンディは、神妙な面持ちで口をきゅっと結び、何も言わずに下がっていく。
言える立場にいない、だが、何も知らないわけではない。そんな態度。
——その背中を見送って、視線を戻したとき。
向かいの椅子に、少年が座っていた。
いつからそこにいたのか。足音を聞いた覚えはない。
「用があるのは、僕です」
すっかりと大人びた落ち着いた声。
年齢に似合わぬ、まっすぐな目。
「おや」
ヘリオスは、わざと軽く笑ってみせる。
「なんだ、保護者を出し抜く気?」
冗談めかして言ったつもりだったが、少年——ローワンは眉一つ動かさなかった。
「僕の噂を耳にしていますね」
言葉自体は問いかけの体だったくせに、ローワンはヘリオスの返事も待たずに一枚の紙を差し出す。
まるで初めから主導権はこちらだと言わんばかりで、実にいけ好かない。
自分がどれほどの札を切っているか、分かっていての顔だ。
それでいて、差し出したそれすらしれっと、ためらいも、誇示もない。
ただ、必要だから出した——そんな仕草だった。
(前はもう少し可愛げがあったものを……)
差し出されたそれに目を落としたヘリオスは、思わず息を吐いた。
「……はは」
乾いた笑いが零れる。
「そうだろうとは思っていても、実際に見せられるとえぐいな……」
そこに書かれていた名と血筋。そして、古い封の印。
視線を上げると、ローワンはじっとこちらを見ている。媚びも、恐れもない。
ただ、覚悟だけがある目だ。
(アルヴェル……)
胸の奥で、親友の顔が浮かぶ。
真っ直ぐに見据える目は、確かにお前の少年の頃とそっくりだ。この少年も、ひとりで何かを決断してしまったんだろう。
——あの御子と出会ってしまった所為で。
「王宮に行きます。でも……セリウス様を、この場に引きずり出したくはないんです。
だから——代わりに、王宮に伴ってくださいませんか?」
少年は静かに迷いなく言った。だが。
「……はあ?嫌だね」
ヘリオスはどっぷりとソファに身を沈めた。
そのまま、口の端だけを歪める。
「あいにくだが、それだけは飲めないな。……第一、僕は君が気軽にものを頼める人間じゃない。それを分かった上でやってるなら、一番タチが悪い」
ローワンの眉間に皺が寄る。
(その顔すると、余計に似てるな)
次に何を言ってくるだろう、と思ったところで、ローワンの視線がヘリオスから外された。
控えめな足音がして、応接間の扉が開く。
「こら、ローワン」
言葉は咎めるそれだったが、声色はただ静かで淡々としていた。少年は一瞬だけ肩を強張らせ、それから素直に視線を伏せる。
「……ごめんなさい」
「話を急ぎすぎだ。保護される側だよ」
そう言ってから、セリウスはヘリオスの方を見た。
「彼が失礼しました。まさかこんなにすぐにいらしてくれるとは。さすがですね」
いつもより硬い笑み。
「……御託はいい。用件は?」
「この子の言った通り……王宮へ行くつもりです。私も、共に。元よりこの子を見届けると約束したので」
「へえ」
一拍置いて、ヘリオスが口の端を吊り上げる。軽く息を吐き、一度手元の茶器に目を落としてから再び視線をセリウスに戻した。
「で?わざわざ宣言をする為に呼び出したんじゃないだろ。
——僕の力が必要なんでしょう?」
ヘリオスの顔に、もう薄ら笑いはない。
ローワンは一度だけ、セリウスを見上げた。確かめるような視線。それをセリウスは何も言わずに受け止めている。
「——ローワンを、守って下さい」
セリウスは淡々と続けた。
「私ができるのは、王宮に行くところまでだ。その先で、どう判断されるかは分からない」
王族に復帰するか、罪に問われるか——言葉にしない可能性を、すべて承知の上で。
「エミリアが召喚される日にぶつけるつもりです。証人が多いその日ならば、暗黙に処理される可能性は低い。ですが、念のため」
ヘリオスは小さく目を伏せ、小さく溜息を吐く。
「……やれやれ。揃いも揃って面倒な奴らだ」
肩をすくめて笑うヘリオスとは対照的に、ローワンの表情はますます固くなった。
「……処理、って」
ようやくこの少年も、理解が追いついたらしかった。
「ローワン」
セリウスが少年の名を呼ぶ。そして続ける。淡々と、ただ事実を告げるように。
「血筋がある。名がある。それだけで、容易く受け入れられる訳じゃない。むしろ状況次第では、正しさと同じだけの“罪”も生まれる。
王宮にとって、君の存在はそれだけ重いんだよ」
——罪。
少年の言葉が、喉の奥で止まる。
「王政を乱す可能性がある以上、無実でも責を問われることはある。それを前提にしない覚悟は、覚悟とは呼べない」
ローワンは唇を噛んだ。
視線が揺れ、ほんの一瞬、逃げ場を探すように伏せられる。
そうだった。最悪の事態——それを、セリウスが考えないはずがなかった。
自分が望んだばかりに、ランドフォードで取り戻したはずの光を、彼に捨てさせた。
エミリアを遠ざけ、あらゆる外聞にも黙したまま。セリウスは淡々と、“自分のいないその先”を見ていた。
——どうしてそこまで。
「……」
沈黙するローワンに、セリウスは一歩だけ近づいた。
「不安なら、やめようか?」
静かで、揺るぎのない声だった。
「君が立つ場所を決めるのは、私じゃない」
ローワンの肩が、わずかに震えた。
「どうする?今ならまだ引き返せるけど」
引き返させたいのか、それとも覚悟を試しているのか。セリウスの言うように、出自を明らかにすれば王宮に戻れるだなんて考えは浅はかだったのかもしれない。
——それでも。
ローワンはセリウスを半ば睨み付けるように見た。
そして、低く息を吐く。
「行くに……決まっているでしょう」
教皇の腹の底は見えなかったが、約束を反故にするような人物ではない。むしろセリウスを王宮から遠ざける為に、きっと王宮に牽制をかけてくれるはずだった。
なにより、今のこの状況を続ける方が悪い未来しか描けない。そんな気がした。
「……なるほど」
沈黙を破ったのはヘリオスだった。
彼は口元に苦い笑みを浮かべてローワンを見、そのまま視線を白い男に滑らせる。
「じゃあ、その“負け筋”の回収を貴殿がするって解釈で合っている?」
「ええ、そのつもりです」
セリウスはようやく控えめに笑った。その言葉の意味を感じさせない、驚くほど穏やかで隙のない笑みだった。
組んだ脚の上で頬杖をつき、ヘリオスはセリウスを見つめる。が、やはりその顔にも動揺や焦燥等微塵も感じられず、それ以上の追及はやめにした。
安易に踏み込めば、隣にいるこの少年の覚悟の方が揺らぎかねない。
「……?」
そう思いかけて、はたと気付く。
(覚悟させてどうする)
この少年が王族の血を引いていようと、虚言だと言われればそれでお終い。自らの保身の為にローワンを担ぎ上げたとされて、この男は断罪されるだろうに。自分とてそれの片棒を担いだと疑われる可能性は十分にある。
(だいたいお前、そんなタマか?)
これまで動かなかったのは、自分と同じベアラーの未来のためなんかじゃないだろう。
セリウスという男は、この顔をして中身はもっと利己的だ。だが腑に落ちない。たしかにこの少年には特別目を掛けているのだろうが、だからってこの男が何の縁もない一人の子どものために協力をするとも思えなかった。
「なあなあ、でもさ」
冗談めかした口調のまま、ヘリオスは話題を変えた。
「なんか忘れてない?それ、僕になんの利もないと思うんだけど」
さあ、どう返す。
ここで建前を言うのなら下りよう、とヘリオスは静かに心に決めた。
セリウスは答える前に、ほんのわずかだけ間を置いた。考えているというより、言葉を選んでいる沈黙だった。
「利……と言えるかは分かりませんが」
やはり声に微塵の迷いもない。
「少なくとも、ローワンが王族に組み込まれることで、あなたの親友が……そう急いで妃を娶らずとも済みます」
ヘリオスの指先が、ぴくりと止まる。
ああ、ここで——この名を出すのか。
「あの人も、自分が王族のしんがりを務めねばならないと気を張り続ける必要は、多少なりともなくなるはずです」
願望ではない。見通しとしての声だ。
「……本当は、表舞台に立てるほど強い人じゃないんです」
ヘリオスは、気づいてしまった。
ほんの一瞬、声にこもった熱に。
「国に都合よく飼い慣らされた王弟なんて、ヘリオス殿も見ていてきっと退屈でしょう?」
隠しきれない本心が、水色の瞳に宿っている。
「くく……っ。それは君も同じだろ」
本当に呆れる。
まだ幼い少年を利用してまで、自分を生かし続けた男の幸福の為に、自分の全てを差し出そうとしているのだから。
「……分かった、協力しよう」
自分は意外と、情熱家なのかも知れない。
セリウスはきっとまだ何かを隠している。それが恐ろしい結末を迎える何かだったとして、手を貸さない理由が、ヘリオスにはどうしても見つけられなかった。
清廉な顔に不釣り合いなほど利己的な本心を垣間見て——だからこそ、手を貸したくなった。




