褒美
同じ頃。
シャルル卿のもとへ、エミリアを妃候補とする旨の書簡が届いた。
王宮の名で、整った文面で、淡々と。
表向き、それは褒美であった。
御子セリウスの長きにわたる奉仕に対して。
そして非公式ではあるが——王弟アルヴェルの命を救った功績に対して。
拒否という選択肢のない——褒美。
書簡を読んだ途端、シャルルは机を叩いた。音が、重く部屋に響く。
「ふざけるな……!こんな仕打ちはない……!」
紙束を握り潰すその手は震えている。
怒りだけではない。
娘を“褒美”として差し出せと言われた、その屈辱に。
「セリウスのみならず、今度はエミリアを差し出せ?しかもあの噂を始末するための駒としてか?
そんな取引、飲めるか!」
対して、ベルトランは椅子から立ち上がらなかった。
ただ、静かに首を横に振る。
「……感情で動くな、シャルル」
「兄上まで、そんな——!」
どうしてそんなにも冷静にいられるのかとシャルルは苛立った。
だが。
「仮に楯突いたとして」
ベルトランは、言葉を区切る。
怒りも焦りもない声だった。
「戦えば、滅びるのは我が一族だ」
その一言で、空気が凍る。
モルフォンド侯爵家は、争いを好まない。
剣ではなく、信頼で領地を守ってきた。
長年、王家に忠を尽くし、余計な野心を見せず、だからこそ——広大な領地を持ちながら、名ばかりの私兵で済んでいる。
「反旗を翻すには、準備も、人も、覚悟も足りない」
淡々とした声が、現実を突きつける。
「これは褒美だ。王命なのだよ」
シャルルは唇を噛み、俯いた。
「……じゃあ、どうしろって言うんだ」
その声は、怒りではなく、疲労に近かった。
ベルトランは、視線を落としたまま答える。
「受けるしかない。それに、陛下たちにもお考えがある筈だ」
「……それは、そうかも知れんが。だからと言って何の懸念もなくなるわけじゃないだろう……?現にセリーヌだって……!」
「それでもあの頃とは……、エミリアは違うだろう?あの子は強い」
廊下に面した扉の外で、エミリアは立ち止まっていた。
最初は、ただ声が聞こえただけだった。
そして——自分の名前が出た。
それ以上、近づく必要はなかった。
怒鳴り声も、泣き声もない。
あるのは、低く抑えられた声と、逃げ場のない現実だけ。
「受けるしかない」
「王命」
扉越しの言葉が、胸の奥に沈んでいく。
エミリアは、静かに一歩下がった。
誰にも気づかれないように、足音を殺して庭へ出る。
戸外の空気は、まだ夏の名残を含んでいる。けれど、肌を撫でる風のどこかに、微かな冷たさが混じっていた。
風が葡萄の甘い匂いを運んで来た。
「……もうすぐ、秋が来るのね」
夏の間は考えなくていい、とローワンはそう言っていた。
けれど、とうとう終わりが来てしまったのだ。
彼女は小さく息を吐き、踵を返す。
母ヘレーネの元を訪ねると、用件だけを静かに告げた。
「お母さま。……お別れを言わなければならない人がいるの。叔父様に、先にお屋敷に戻るって伝えておいて」
「エミ——」
「逃げたりはしない。大丈夫よ」
問い返される前に、被せるようにして言い、視線を伏せる。今母の顔を見たら、諭されてしまう。あるいは、抱きしめられてしまう。
それは——今、できなかった。
*
外で馬車の止まる音がして、シンディが玄関へ向かった。
砂利を踏む音がひとつ、扉の向こうで止まる。
程なくして、シンディと共に入ってきたエミリアは旅塵をわずかに纏ったまま、扉が開くなり口を開いた。
「ローワン——」
だが、その視線が彼の先にいる人物を捉えた瞬間、言葉は途中で途切れた。
唇がきゅっと結ばれ、声が喉で引っかかった。
そこにいたのが、兄だったからだ。
「……お兄さま」
あの夜会以来、兄とまともに言葉を交わしていなかった。
元はといえば、あの日。
頑として、夜会などに出向かなければよかったのだ。いや、むしろ——いっそ決定的な恥でも晒していれば、誰の思惑にも乗せられずに済んだのかもしれない。
そんな考えが、遅れて胸に広がる。
取り消せない選択肢ばかりが、今さら並べ立てられていく。
「丁度良かった……。今朝ね、王宮から通達が来たの。私を召し上げてくださるのですって」
取り繕いきれぬ笑みに、セリウスの後方でローワンが静かに口を引き結ぶのが見える。
エミリアは何を責めたいのか分からないでいた。
兄なのか、王宮なのか、それとも——自分自身なのか。
「私、あの日……」
一度唇を噛みしめ、結局やめた。
今更何を言ったところで何も変わらない。後悔が、また遅れて胸を突き刺した。
萎れた妹の様子に、セリウスの椅子の背もたれを掴んでいた手がピクリと動く。
だがその手は終ぞエミリアを抱き締めるために持ち上がることはなかった。
ただ一度、変わらない距離のままで名を呼ぶ。
「エミリア」
冷たく、静かな声だった。
「……今すぐ本邸に帰りなさい。
言っている意味が分かるね。二度と私やローワンに会ってはいけない」
「なぜ?……なんでよ」
相変わらず、勝手だ。
思わず乾いた笑いが零れた。
セリウスは視線を逸らさず、続ける。
「さあ、戻るんだ。そうすれば君だけは守られる」
その瞬間、エミリアの瞳から、感情が溢れた。
何から守られるっていうのか。
もう既に、自分や彼らの日常は元に戻らないというのに。
「エミリア」
「……なによそれ」
肩が、小さく震える。
「頼んでないわよ……!自分の生き方も決められないくせに、私に指図しないで!」
セリウスの表情が、初めて揺れた。
また怒りに任せて余計なことを口走ったのだと気付いた時にはもう遅かった。
「エミリア……」
ローワンが心配そうに名を呼ぶ。
だが、彼をまともに見ることはできず、エミリアはそのまま早足で出口へと向かった。
こんな姿を見せたくなんてなかった。
覚悟をして、ローワンにも淑女らしく別れを言いに来たはずだったのに、結局また自分ばかりが空回って、兄を侮辱した。
「シンディ。馬車までお送りを」
背後で固く冷えたセリウスの声がした。
*
静かに扉が閉まる乾いた音が響くと、広い居間に気まずさだけが残る。
「……最低だな、私は」
ポツリと呟くようなセリウスの言葉は、きっと同意を得たかったわけじゃない。
そんなことは分かっているけれど、分かりたくなかった。まるで、エミリアの感情を引き継いだみたいに、やるせなさがローワンの胸の奥を焼く。
不安な感情を受け止めてもらえぬまま、正しさの刃を向けられたエミリア。その肩を抱きしめて、自分の胸で泣かせてやれたら。でもその力を、今の自分は持ち得ない。
ローワンはまっすぐセリウスを見た。
「……セリウス様は僕のことを見届けると言ってくれましたよね?」
その問いに、男は無言で頷く。
「じゃあ、その後は?」
思えば、セリウス自身がどうするのか、何を望むのかを聞いたことがなかった。エミリアの苛立ちの理由を今のローワンはよく分かっていた。
セリウスは何も言わない。ただローワンの瞳をじっと見据え、僅かに下唇を噛んでいた。何かに耐えるように。
「僕は、エミリアに自由でいて欲しいんです」
代わりに、ローワンは一切目を逸らさずに続ける。
「ただ、好きな人に、その人らしく生きて欲しい。
望んでもいない結婚をして、彼女の笑顔が奪われるくらいなら、僕は僕の身体に流れる血を利用する。
あなたや、あなたと同じベアラーも助けたい。それも本当です。でも、もっと身近なエミリアを守れないなら、誰も救えない」
言葉の幼さとは裏腹に、決意だけがやけに成熟していた。
「何が言いたい……」
「いくら崇高な理由を並べたって、どうせやることは同じです。
エミリアを王弟の妃にするくらいなら、その座を奪い取る。こっちの方がわかりやすくていいだろって話です」
ローワンはわざとらしく雑な言い方で目の前の男を煽った。燻る様な焦燥感が、喉の奥で疼いた。
「僕はすぐにでも王宮に行きたい。
何もできないまま、成り行きに任せて、それで全部自分のせいだって嘆いて、そんなのは——」
「ローワン」
制した声はあくまで静かだった。
跳ね除けるような響きではないのに、有無を言わさない空気があった。
セリウスは椅子に腰掛けるとふっと短く息を吐いた。
笑みはない。
膝の上に肘を突き、その手が項垂れた男の顔を覆っている。その隙間からチラリと見えた水色の瞳は、あの寂しげな色でも、いつもの穏やかなそれでもない。冷淡で、底の読めない——まるで別人のものの様だった。
セリウスは覆っていた手を外し、少し考える様な間を空けてから顔を上げた。
「今は無策で飛び込んで良い状況ではない。
それに私がどうするかをお前たちに話して聞かせるほどの願いも希望も、私にはない」
明確な、線だった。
「セリウス様……」
「……少し待ちなさい。算段はついている」
それだけ言って、セリウスも自室へと戻ってしまう。結局最後まで笑顔はなかった。
分からない、もう。何を考えているのか。
返ってくるはずのものが、何もなかった。
反論でも、怒りでもない。
——触れたはずの言葉が、そのまま沈んでいく。
結局、ただの一度でも、あの人の心の片鱗に触れた実感がなかった。
自分では彼を救えない。
なのに、教会から戻ったあの日——セリウスは一人で何かを決意してしまったのだ。
それだけは、分かった。




