使命(2)
ローワンは謁見の間に入った時と同じように、神官の背を数歩後ろから追って出てきた。
足取りは乱れていない。だが、肩口に残る緊張が、まだ抜けきってはいなかった。
「っ、ローワン……!」
控えの間の扉が開く。その瞬間、セリウスが勢いよく立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「大丈夫か?何か言われたのか——」
言葉が先走る。
顔を覗き込もうと半歩踏み出しかけて、そこでようやく神官の視線に気づき、セリウスは口を噤んだ。
神官は何も言わず、二人を一瞥しただけで扉を閉める。
重い音がして、謁見の間の重苦しい気配が断ち切られた。
変わっていない。
服も、髪も、そこに立つ姿も。なのに。
その目に、見慣れない何かが同居しているのを、否定できない。
「……ローワン?」
セリウスの呼びかける声が、わずかに揺れる。
少年は一拍遅れて顔を上げた。
「……待たせて、ごめんなさい。もう大丈夫ですよ」
いつもより少しだけ、大人びた声。狼狽える自分をそっと嗜める様な色があった。
“大丈夫”と判断する立場に、ローワン自身が立ってしまった。その事実が、セリウスの胸をちくりと刺した。
「何を……話したんだ」
問いは短い。
訊かなくとも、何となくは分かってしまう。それでも訊かないという選択肢はなかった。
ローワンはすぐには答えず、一度、視線を落とし——それから、まっすぐにセリウスを見る。
「僕……王族に、戻ります」
ああ、やはり。
「……それは、なぜ?」
声が、うまく出なかった。
ローワンは続ける。
「今決めたのではないですよ。
言ったでしょう?一番“これはないな”って思っていた選択肢を、選びそうですって。だから」
にこりとローワンは笑った。
「教会は、もう管理の名の下にあなたの行動や意思を縛らない。そう約束してくれました。
助けたい人を助けていい。どこへでも行ける。
拒むことも、選ぶことも、全部——セリウス様自身のものです」
まるで、これが最善策だとでも言わんばかりだ。
「……待ってくれ」
セリウスは一歩、距離を詰めた。
目の前の少年は、確かにローワンだ。だがもう“盾の後ろにいる子供”ではない。
「……勝手だ」
絞り出した声は、思った以上に情けなかった。
「そんなの、勝手だろう……!」
恐らく、かなり取り乱していた。
そんなセリウスを、まるでいつもの自分が彼にする様に、少し困ったような顔で笑うのだ。
「そうかもしれません」
立場は完全に逆転してしまった。
「でも僕はそうしたい。
これは僕自身の意志でもある。だから、僕がセリウス様の犠牲になったなんて、思わないでください」
セリウスは反論の為に口を僅かに開いたが、結局は小さなため息だけを落とした。
騎士が槍を持ち直し、金属が擦れる乾いた音だけが反響する。その余韻の中で、ローワンはかつて、一度だけ口にした言葉を、もう一度なぞるように言った。
「僕がどこに辿り着くのか——最後まで、見ていてくれませんか?」
一歩距離を詰め、セリウスの手をそっと握った。
「……ね?セリウス様」
柔らかく笑って。
それは約束に近い——静かな宣言だった。
もう何も言えない。
引き留める言葉も、肯定する言葉も、どんな言葉を選んでも、この少年の選択を軽くしてしまう。
見届ける。
そう言ったはずだ。ローワンがどんな道を選んでも、家族として受け止めると。
けれど、その実。
自分はただ、この少年との穏やかな日々に、癒され続けていたかっただけなのかも知れない。
ランドフォード領と、それから王都で共に暮らした、たった数か月が眩し過ぎたせいで。
使役も、制度も、覚悟も届かない場所で、ただの人間同士として、目の届く所で彼の成長を見守りたかった。
それがどれだけ身勝手だと分かっていても、手放したくなかった。
(……リディア殿に偉そうなことを言えないな)
それに気づいてしまった今——肩を落として、笑って返すより他なかった。
「本当に……恐れ入るよ」
きっとうまく笑えていないと、自分でも分かっていながら。
*
教会を出たのは、陽が傾き始めた頃だった。
行きと同じ顔ぶれ。
同じ馬車。
それなのに、空気だけが明確に違っていた。
ローワンとセリウスを運ぶ馬車はランドフォードではなく、王都——セリウス邸へ向かった。
それは命令というより、ローワンの意志を汲んでの“手配”だった。
聖騎士ルチアは、来た時とは異なる位置で馬の手綱を取っている。
先導ではなく、並走。遮るためではなく、守るための距離に変わっていた。
セリウスは、それに気づいていた。
あの槍は、もう自分たちを止めるために構えられてはいないのだ。
「僕は行きますが、セリウス様は無理ならランドフォードにお戻りください」
ローワンはそう言ったが、セリウスは静かに笑ってゆるゆると首を振る。
「何を今更。行くよ、見届けなくては」
ローワンを安心させるつもりが、自分に言い聞かせるような返事になった。
「——問題が起きたら、即座に止める」
振り向くと、馬上のルチアがこちらを見ていた。
視線は鋭いが、敵意はない。
「だが、それまでは護送だ。逃げる気がないなら、無用な干渉はしない」
それだけ言って、再び前を向く。
剣の様に鋭く容赦のない性格かと思ったが。
待機中の会話といい、存外それだけではないかも知れない、とセリウスはわずかに目を細めた。
「……ずいぶんと、融通が利くようだ」
「立場が変わっただけだ。
罪人を縛る命は下りていない。それに——」
ほんの一瞬、言葉が切れる。視線はわざと前を向いたままだった。
「この先で王宮を敵に回すつもりなら、護衛が一人もいないのは、愚かだろう」
ぶっきらぼうに返される。
「合理的ですね」
セリウスはようやくクスッと、小さく笑った。
が、次の瞬間、馬上から腕が伸び——指が、迷いなくセリウスの首を掴む。
「セリウス様!」
「ぐ……ぁっ!」
ジワリと。確かな感触があった。
「何するんです!」
「……やはりな」
キッと睨みつけるローワンには見向きもせず、ルチアは手を離すと、吐き捨てるように言った。
「すっかり、力を取り戻している」
セリウスはゴホゴホと数回咳き込んだ後、ルチアに問う。
「は、ぁ………わ、かるのですか?」
「同じものを持っていればな。
先日貴様を見たときは、ほとんど死人だったのに。何があったかは知らんが、守り人なんて必要ないほど元通りとは……。化け物だな」
フン、と鼻で笑ってから、ようやく手を離した。
そのまま、何事もなかったように手綱を握り直す。
ルチアは前を向いたまま言う。
「忘れるな。力が満ちているということは、また奪われる側に戻ったということだ」
セリウスは、尚も掴まれていた感覚の残る首筋にそっと手を当てた。
ほんの少し前、枯れかけて生死を彷徨っておきながら、今では、死にたくなるほど心がいっぱいになっている。
それでも以前より、少し呼吸がしやすくなった。
言葉にするなら、それだけのことだ。
ただ——あのときの温もりは、はっきり覚えている。
胸で受け止めた、頭の重さ。
そこに確かにあった、命の気配。
自分の胸の奥で、混ざり合って、揺らぐ愛しさ。
与える為だけに存在していた身体に、初めて訪れた穏やかな反流。
「……どんな、ふうに見えましたか」
問いが零れた。
「他のティアベアラーとは、これまで関わりがなかったので……自分では、よく分からず」
下手な言い訳だ。同じベアラーであるなら、自分の泉の色を分からないはずがないと、知っているだろうに。
それでもルチアは、セリウスの予想通り——突き放す事はしなかった。
視線だけを前に据えたまま、短く息を吐く。
「……前にも、ここに来て同じことを聞いてきた御仁がいる。そいつに聞け。私より、よほど丁寧に考えてくれるだろ」
投げやりな言い方だったが、そこに棘はない。
周囲が勝手に危惧し、騒ぎ立てるような——聖性の掌握だの、王政への干渉だの。
そんな大それた意図は、当人たちには初めからこれっぽっちも無いのではないか——と、彼女の心には漠然とした理解が生まれていた。
この世界で唯一信じられる、自分の目と耳で知り得た事実だったからだ。
彼女は、ほんの僅かに口元を緩めたが、ほんの少し馬を進めたせいで、セリウス達に気付かれる事はなかった。
馬列が、再び動き出し、馬の蹄が一定の調子で地を打つ。
セリウスもローワンも、ただ黙ったまま、互いの手を握り締めていた。
*
王都に戻ると、嫌でも噂が耳に入ってきた。
石畳を踏む音に、ふと周囲の声が途切れ、視線が遅れて逸らされる。
通りの角で、商人たちが言葉を飲み込む。
だが、呼び止められることも、名を呼ばれることもない。
——善き王は、哀れな御子を酷使した。
——王弟は、御子を解放する名目で権力を掌握した。
どれも、耳慣れの良い言葉だった。誰かを断罪するには都合がよく、誰かを安心させるには十分に整っている。
屋敷に着く頃には、胸の奥が冷えきっていた。
(……陛下も、王弟殿下も)
彼らの思いとは、まるで逆の姿で語られている。
自分を——ティアベアラーを、この国の贄から解き放つために選んだ道が、こうして都合の良い物語に組み替えられていることを、ここで初めて、否応なく理解した。
そして、それだけでは終わらない。
名指しは避けられているが、確かに向けられる声がある。
——ティアベアラーは自らの権利のため、隠された王家の胤裔を人質に取ったらしい。
言葉の端々に、好奇と警戒が混じる。
まるで“次の役”を値踏みするように。
セリウスは、無意識に唇を噛んだ。
(ああ、もう既に……)
彼もまた、同じ文脈で語られ始めていた。自分の延長として、自分の所有物のように。
——王家に楯突く、危うい存在として。
どうするのが、正しかったのだろう。
素直に教会の"保護"を受け入れれば良かったのか。
瀕死の彼を、見殺しにすればよかったのか。
それとも、あのまま力を出し切って死ねばよかったのか。
そもそも、王都に戻らなければよかったのか。
御子以外で役に立ちたいなどと——身の程を弁えない夢を持ってしまったせいなのか。
答えは、どこにもない。
ただひとつ分かっているのは、そのすべてを自分が「嫌だ」と思ってしまった結果が、今なのだ。
人は、御子が王宮か教会のいずれかに属している限りは、安心できる。
それが長い歴史の中で編まれてきた理であり、秩序だった。
だが王宮でも、教会でもない場所で、御子が人として生きること。ただ名も役割も与えられず、世と同じ地面に立つことは、理の外にある。
市井には、ティアベアラーはいない。もしいたとしても、誰にも明かさず、ひた隠して生きる。
だからこそ、彼らの目には自分が誰かの利益の為に搾取されている様にも、もしくはその力を以って、人を籠絡している様にも見えるのだ。
それが当たり前で、それが“正しい”解釈だった。
自分がどこにも属さずに立とうとしているという異例は、人々にとっては「理解」ではなく、「不安」になる。
誰かの庇護に置かれない御子。
管理されない象徴。
都合の良い物語に収まらない存在。
——そんなものを、世は許さない。
だが、もはや何もなかったかのように王宮に所在を戻すには手遅れだった。
今更それをすれば、事態はさらに拗れるだろう。
それに今ローワンを一人にする訳にはいかない。
それなら——新たな理由を作ればいい。
もう既に自分は、穢れなき御子なんかじゃないのだから。
——綺麗でいる必要はもう、ない。
「ローワン」
名を呼ぶと、少年は顔を上げた。
その目は、すでに多くを察している。
「近いうちに王宮から呼び出されるはずだ。君はもう、見つかってしまったから」
「……はい」
短い返事に、覚悟が滲む。
それが、なおさら胸に痛かった。
「私も、君の望みを見届けるよ。そしてこの先も——」
一瞬、言葉を探す。
「必ず君が困らないようにする。君を、ひとりにはしないよ」
——そのために私がどうなろうと。
「アンヘル……これを、頼めるかな」
しばらくして、彼は簡素な手紙を従者に渡した。
その水色の眼は何かを静かに決意していたが、もう誰も訊ねることはしなかった。




